2017年7月30日日曜日

京都の雑草

今週には、防衛大臣と民進党党首の辞任が同日に発表されました。

辞めればいいのか?とも思う一方、辞めさせにかかっている社会もあり、どっちもどっちだなあと思います。

いつからか分らないですが、日本の色々な問題において、私は、どっちもどっちというモヤモヤ感で、発言すらできない状況が続いています。

加計問題しかり、森友問題しかり、又、それを取り巻くそれぞれの対応でも、今、世界情勢が緊迫した中で、あんな事に国会で膨大な時間を使っている事への批判もありますし、その通りだとは思います。

通常、何かで対立している人(組織)が、それ以上の敵が出て来た際に、協力する様になるものですが、北朝朝鮮の脅威を言いながら、こんな問題を延々行なっているという事は、殆どの政治家自体も、危機感が無いとしか思えません。

一方で、そんな下らない事に時間を費やして!という意見の方の属性を見ていると、現状、力を持っておられる側で、既存のシステム、仕組みで優位な立場の人が多い様に思います。

どっちもどっちの話でいけば、加計、森友問題は、そんな事より国防を、という事は思う所ですが、安倍首相の何が問題か?という点については、表面上の問題ではなく、これまでのシステムでは限界が来ているのに、そこで力を得て来た人達がそれを守ろうとしているか、もしくは、それこそ危機感の欠如から、問題の本質が分かっていないのか、要は、力づくて通してしまおうとしている姿勢、考え方が問題なのだと思います。

という事なので、既存システム上での右か左か、体制側か反体制側かという問題ではない中、そこで行われる論議や、それに対するマスコミ含めた社会の反応も、これまでのシステム、価値観上での話なので、モヤモヤ感が募るのだと思います。

又、自国主義、〜ファースト、言い方は別にして、自分中心がはびこる中、落ち度があると、皆で寄ってたかって、完膚なきまで痛めつけるという風潮も大変気になると言うか、力づくでのリーダーシップの反対側ではありますが、同じシステム(価値観)の中で動いている様に思います。

これらも東西冷戦時代、要は資本主義VS社会主義という構図の中、ある意味、その均衡状態で全体のシステムが守られていた時代の感覚での話に思えてなりません。

人口減少社会に向かう先進国では、力づくで、という”競争”では成り立たなくなりますし、かといって、社会主義ではない事は明白で、新たなシステムが必要なのです。

それはどんなものか?と問われても、当然、私などが確信を持って説明できるものではありませんが、自然の摂理に従う事が、シンプルに正しいのだと思います。

自然界は決して甘いものではないですし、弱肉強食の生存競争は行われます。

しかしそれは全てに循環があって、補完関係があって、完膚なきまでに叩き潰す様にはなっていないですし、仮に徹底的にやっつけるシステムが組み込まれていたとしても、そこにはそこから生まれる価値や役割が必ず組み込まれています。

何か又々、重い話をツラツラと書いてますが、そしたら、私は絶望しているのか?というと決してそうではありません。

今週は京都市ソーシャルイノベーション研究所が主催したソーシャルイノベーションサミットに、自治体の関係者中心に約300名の方が全国から集まっておられました。

これを含めて私自身、今週だけでもソーシャルと言われるイベントやミーティングが7件ありましたが、全国のあちこちで一つ一つは小さな動きですが、今の流れを逆流させようとする動きが起こっています。

よく聞かれる、何故、そんなに本業と関わりない様な事に関わるの?とか、何の為に行なっているの?いう問いに対しての答えがここにあり、ハコモノ行政、上から決められた形での運営、既存枠組みでの行き詰まりから脱却していくには、それこそ力づくではなく、自分ごとで始まった小さな動きを繋いでいって、流れを逆流させていくしかないので、関われる事においては参加しながら、補完できる事、繋いでいける事を行なっているのです。

完全無農薬で奇跡の農法とも言われる、北海道の佐々木ファームさんに以前聞いた事があります。

雑草というものは、間違いなくその近くにある植物の生育の為に足りない要素を補完する役割で生えているのだそうです。

ここに全ての本質があり、それぞれの役割がある様に思います。

私自身、丁度、京都の経済界の中では雑草の様な存在だと思いますし、"そんな雑草でありたい"と言うと格好つけ過ぎですが、抜きさられない様にしっかり根を張り、循環する生態系を繋いでいく役割を果たしたいと思います。






2017年7月23日日曜日

『人で勝つ経営』とオフィス環境

今週は予定が重なりまくりの出張でした。

水曜日に担当している経済同友会例会に出席後、最終近くで横浜入り、翌朝、盛和塾世界大会の二日目のみ出席でその日は東京泊、翌朝はトップフォーラムで軽井沢のホテルに直行してセミナーのみ出席して、京都へとんぼ返りという週でした。

それぞれが中途半端で、しっかり学べてないよなあ〜と反省も多いのですが、トップフォーラムでの、LIXIL前副社長八木さんの「人で勝つ!」という戦略人事のお話は、ウエダ本社として考えている所と重なる事も多く、勇気とヒントを頂きました。

企業の中で人事が抵抗勢力になっている事が多く、自ら人事のプロを自負され、日本で人事のプロを作っていかないと、日本企業の弱体化が止まらないという危機感をお持ちの八木さんは、戦略というからには、ゴールをしっかり持っているか?つまり勝ちの定義を持っているか?と投げかけられます。
そして、人事の勝ちとは、人と組織で最高のパフォーマンスを出す事、経営を差別化する為、自分の会社らしい人事をする事だとの仰っていました。

しかし、これだけの意識を持った"攻める人事部"というのが、日本の中で何社あるのか?
少なくとも私は、出会った事がありません。

八木さんは、LIXILの前にGEでも人事リーダーを務めておられたのですが、GEが競合他社と倍以上の生産性を上げていたのは、社員のやる気が高い事が大きな理由だと明言しておられました。

人がやる気になれば生産性が高まり、成績も上がる、こんな事は当たりだと思うのですが、何故か、日本の会社は、そういう事に目を向けていません。

ウエダ本社で考えている事と合致するというのは、単にオフィスを作るとか、ましてや備品を販売するという事ではなく、働く人がいかにやる気を起こす様な環境、制度、教育、風土、場というものをトータルでサポートするという事を目指しているのですが、残念ながら、それでどの様に、どの位効果が出るのか?というエビデンス、要は、そこにそれだけお金を掛けて、どの位利益が上がる?という数値的なものが無いとなかなか進まないの です。

お金を生まないオフィスはできるだけ安くして、社員のモチベーションなどを考えず、ただ管理するという、右肩上がりの時代の価値観のまま運営されている所が殆どです。

とは言え、最近漸く、オフィスの重要性の認識が高まり、我々にその企業さんの根幹やシンボリックになる所をお任せ頂いたり、ご相談頂いているケースが増えて来て、実はそういう事もあって、それぞれの会合に顔出ししている事もあるのですが、我々は、人の大切さ、人のやる気の重要性に理解ある経営者の会社から、『人で勝つ経営〜その為のオフィス環境』という考えを広めていき、日本の総務を変えていきたいと思います。







2017年7月16日日曜日

残念な結果にならない為に

週末三連休と京都では祇園祭が重なった今週は、毎年この時期に開催される公園遊具メーカーの代理店会で東京でした。

その中での講演会は、電通のビジネスクリエーションセンターのディレクターの方でしたが、意図的に講演会というスタイルではなく、スタッフの方と対談形式で事例中心でされたお話は、大変分かりやすいものでした。

設置者、運営者と利用者の意識のギャップという事においては、公園というものはある意味最も残念な場所となっており、日本の殆どの公園が、地域の役に立っていなかったり、むしろ危険な場所となっているケースも多い状況だという事でした。

何故そんな残念な事になるのでしょう?

ハコ、モノ行政と言われてきた様に、行政というのは、とかくお金を確保して、或いは借金して器を作ってきました。

しかし、世の中の状況、人の関係性、住民の意識なども大幅に変化し、公園やパブリックスペースの在り方も大きく変わっている筈なのです。

子供にとってノビノビと遊ぶスペースである筈が、ボール使用禁止、バーベキュー禁止、花火禁止など、駄目な事ばかり。

近所に保育園ができるのも迷惑だという世の中ですから、"地域住民の為"に仕事をする役所では、クレームを放置できず、結果的には、何もしない方向に動き、挙げ句の果てには、遊具も危ないと使用禁止になったりもしています。

これは決して行政だけのせいではありません。

何故そうなるか?を考えると、何でもそうですが、一方通行の話ではなく、国民、地域住民一人一人の意識も変えていかないといけない事に気づきます。

色々な事がそうですが、"管理型"というのが通用しなかったり、弊害の方が多くなっているのです。

企業の課題、そこからくるオフィスの課題も全く同じで、お金やモノを追い求めなくなった時代、そのマーケットに対する企業の閉塞感、そこで働く人の価値観の変化、リーダーシップの欠如、答え、マニュアルのある教育で育ってきた人への指導などなど、やはり管理型での限界は明白で、そこをどの様にするかで皆もがいているのです。

スタバを中心にカフェなどで仕事をする人が多い様に、仕事場=会社ではなく、家か会社か、プライベートか仕事かという垣根も変わっていっています。

という中では、公共スペースやオフィスでも、使う人の視点で考えていかないと、全くの本末転倒という"モノ"が出来上がり、従来型の頭で、良かれと思ってお金もかけて作ったモノが、誰も使わない、喜んでいないという事になってしまうのです。

ウエダ本社では昨年、約一年がかりで社員のワークショップを繰り返し、それを形にしてオフィスをリニューアルし、その見学者や勉強会も増えて来ていますが、そのリニューアルに"社長としての私の意見は一言も入っていません"と言ったりしているのは、物分かりの良いTOPを演じているのではなく、この様な時代背景というか、オフィスもそう変わっていかないといけないという事を表しているのです。

本当にその場所を使う人、その価値を分かっている人に任せていかないと、分かっていない人、価値の変化に気づいていない人が従来発想で管理をすると、とんでもない残念な事になっていくのです。

だからこそ今の時代、指示、命令、管理という系統ではなく、ダイアログが重要であり、ファシリテーターや、そのギャップを埋めていくインタプリター(通訳者)が重要になるのです。

そうそう!と思う方、なるほど!と思って頂いた方、半信半疑ながら今のままでは駄目だと思っておられる方、京都流議定書の三日目にお越し下さい。

管理者と使用者(利用者)とのギャップが見えてくると思います。

特に、"共創が生まれる空間のデザイン"というセッション3はそのものですし、アーバンピクニックというプロジェクトを行われている村上さんなどは、正に新しいパブリックスペースのあり方を示しておられる方です。

最後はいつも宣伝になってしまいますが、京都流議定書自体、そんな想いや展開が詰め込まれたものですので、ご容赦下さい。





2017年7月9日日曜日

持続可能経済協会で、四十にして惑わず

今週は、飯尾醸造さんのイタリアンのオープンに合わせて宮津に行ったり、土曜日には、アミタホールディングスの熊野会長が立ち上げられた、持続可能経済協会の第一回会合があったりで、書きたい事満載ですが、その会合で、あまりにも衝撃的だった能楽師の安田登氏の講演について、備忘録も兼ねて書きたいと思います。

「能と論語を脱色する」というテーマの講演は、能は650年、論語は2000年読まれているが、殆どの人がつまらないと思っているのに、何故続いているのか?
2045年に迎えると言われている人工知能が人類を凌駕するというシンギュラリティを、論語を通して、前のシンギュラリティを見てみるという事から始まったのですが、能楽師というだけでも話題は尽きないだろう中、漢文?の辞書を編纂されたとかというご経験もありながらの論語研究、又一方では、3DCGやゲームの攻略本を書かれたり、インターネットも、まだ日本で使われていない1991年に米国で出会い、伊藤穰一さんなどともその頃から交流があったという訳の分からなさで、何故、一番衝撃的であったか?という事も想像して頂けるのではないか?と思います。

冒頭の何故、能はつまらないのに、650年続いて来たか?については、世阿弥が如何に続けるか?という仕組みを組み込んだからで、伝統と初心がテーマとなっているとの事でした。

初心の初は、衣と刀で、衣を作る際に最初に太刀を入れる事であり、人は次のステージに進む際に、今までの経験や固定概念などを切り刻まなければならないというのが、初心に返るという意味で、能は豊臣秀吉、江戸時代初期、明治、戦後と四度の大きな変化を経験しながら残ってきたのは、能には初心が組み込まれているからとのお話でした。

不惑、天命の、四十にして惑わずという話も、孔子の時代には"惑"という字は無く、孔子は"或"と言った可能性が強い。
"或"は、囲む、区切るという意味で、四十にして区切らずと言った可能性が高く、つまりこれも、今だと五十五歳位との事でしたが、その位になると、それまでの凝り固まった概念を区切って、初心に返っていかなくてはならないという事でした。

温故知新も、少し意味合いが違い、"温"はぐつぐつ煮込んだイメージ、"故"は、元は"古"という字で、"古"は古いという意味ではなく、堅いというイメージで、自分の中で固定化した知識という事、"知"も孔子の時代には無い字で、矢を表す字が使われている事から、至るという意味であり、"新"は、新たな切断面という意味から、温故知新は、「古い知識をぐつぐつやっていると誰もやってなかった新たなものが生まれる」という意味なのだそうです。
脳の余裕で手に入れたものが"知"であるので、AIになっていく時代、脳が余裕を生み、誰も考えなかった"知"が生まれていくとのお話で、これからは正に産業革命、明治維新などよりも大きい、人類にとってどうなるか?という時代に突入していっているという事を感じてワクワクしました。

この持続可能経済協会というのは、初年度は勉強ですが、それが目的ではなく、あくまで活動していこうとするものですので、私もこういう時代に生まれて来た事に感謝して、今で言えば五十五歳位という事を腹に据えて、四十にして惑わずから、五十にして天命を知るに向かって行動していきたいと思います。




2017年7月2日日曜日

女性観察から働き方を考える

ここ最近は、唱えてきた事をご理解頂くケースが増えてきたり、社内でも理解がされて来たり、(恥ずかしながら、スタッフにもまだまだ浸透はできていません)、世の中が動き出している感じがします。

そんな中で土曜日は、働き方、オープンイノベーション、空間デザイン、都市のクリエイティビティをテーマとした、ミラツクフォーラムに参加していました。

今年の京都流議定書にも繋がる内容であり、又ご出演頂く村田製作所の牛尾さんや、ワークプレイスデザインで共同研究もさせて頂いている、仲先生もお話される事もあり、事前勉強の意味もありました。

千趣会で、前ベルメゾン生活スタイル研究員の和田さんが、"お仕事柄"女性を見るのが大好きで、数十年に渡って女性を見続けて来られたという視点での、これからの働き方や、社会の仕組みについてのお話を聞いていて、私自身の今の展開に至った経緯とも符合する事も有り、俯瞰してみる事ができました。

原宿などでカッコイイ女性を観測して、女性のライフスタイルを考えたと仰る和田さんと同じく、繊維商社でヤングレディースのアパレル向けにテキスタイル企画を行ない、会社として、入り込めていないブランドの開拓役をやっていた私は、休日に一人でそのブランドの売り場を定点観測して、どんな女性がどんな商品を手に取り、興味を持つか?から、その女性が一年後にはどの様な物を欲しがるか?を考えて、そのブランドに提案し、切り崩すという様な事をやっていました。

月曜日の朝一からオフィスで女性と遊びに行った話をしていても、”仕事”に繋がるのですから、楽しい仕事でした(笑)

それが一般的なオフィスに出入りするウエダ本社に来てみると、『日本のオフィスって、どうしてこんなに息苦しいの?』という印象でした。

人のモチベーションや自主性などを考えず、管理だけをし、仕事を作業的にしか考えていないので、時間で計るしかなく、管理しやすい、効率化、平準化を追求した、”人”を歯車に考えた様な光景に見えました。

その姿は正に、食べる為に働いているという感じで、効率化、平準化が生産性に直結すのですから、結婚や出産、又生理的なものから平準化しにくい女性は、その能力を発揮できる状況にはなっていないのです。

当たり前で企業や、組織というものは、成果を上げる為に活動しているのに、それを担う"人"の事を全く考えていないという事に気づき、そこを考えていけば、ウエダ本社としての存在価値が作れるのと、人口減少社会に向かう中で、”人”それぞれの個性、やる気、それが交差する場、というものを追いかけていく事は、今後の日本において大きな意味があると感じて、それを追求していこうと考えました。

メンタルヘルスの問題や、女性活躍の問題も十年以上前から取り組んできたのもそんな気づきからで、女性が活躍する環境づくりについては、MEGAMIという、それに特化した子会社を作るに至りました。

本当にこの一年、いや、我々自身では、そういう概念を自社のオフィスで表す事ができた、まだ十ヶ月足らずの間で、漸く繋がってきたのですが、ずっとそんな考えを追いかけて来られたのも、元々はアパレル業界や、その後海外に出た時に感じた、働き方や”仕事”に対するギャップがあったからだと、和田さんのお話を聞いて振り返っていました。

女性活躍推進が叫ばれる昨今、改めて、働く意志のある女性が、それぞれのシュチュエーションで、一年後、数年後、どんな物を求め、どんなライフスタイルを望むのか?そんな事を考えていきたいと思いますし、何らかの障害で、それこそ効率化や平準化という尺度で計られ、その能力や長所を生かせていない”人”達が、活躍できる社会、働く環境を広げていきたいと思います。

その為には、又、”仕事”で、女性の観察から始めないといけないかもしれません。(笑)

それはさておき、今年の京都流議定書は、そんな働き方変革を推進していく、”いい会社”にしていく為の、制度、風土、場を考えていく三日間です。

これからの働き方、企業経営を考えておられる方は、必ず気づきはあると思いますので、是非ご参加下さい!