2015年9月27日日曜日

ウエダ本社としての腹決め

先週のブログでも、盛和塾世界大会で発表された台湾の塾生の話を書いていましたが、ご自分の様に貧しい事が理由で、しっかりとした教育を受けられなかった人達の職業を作っていく事を使命として展開され、見事に成功しておられたり、今週の石坂産業さんの様に、意図や事実に反して地域から悪者扱いされ、想像するに、人としても許されないない言動や、腸の煮えくり返る納得のいかない事だらけであったであろうにも関わらず、地域に必要とされない仕事をしていても駄目だと、
裁判にもかけて来ている地域の人の為に、会社の環境、在り方を変えて行かれた話などは、本当に見ている所、そもそもの次元が全く違う様に感じました。

しかし、こういう話を聞くと、一つの事に真っ直ぐに向かっておられる姿に、羨ましく思うというか、羨望の眼差しで見ている自分もいるのです。

ただ同時に、そういう想いがありながら、全部中途半端で時間ばかりが経過し、自分は大した事ができていないと、落ち込みもしてしまいます。

何の為に会社をやるのか?

何故、そんな一見、本業と関わりの無い事ばかりやるのか?

目立ちたいのか?

人からはずっとそんな問いかけをされ、自分でも何故?って思った事もありました。

”謙虚にして驕らず” 京セラフィロソフィーにもあり、それを実直に実践しておられる様な稲盛塾長が、サラリと自慢の様な話をされる事があり、初めの頃私は、そのギャップが分からなかったのですが、ある時、”稲盛和夫に与えられた能力は稲盛和夫個人の物ではなく、それは、世の中の為に使いなさいと天から与えられたものなのだ”というお話をされた時に凄く腹落ちがしたのです。

その話で私も同じだというのはおこがましい話で、とても才能などありませんが、その考え方は凄くスーッと体に入り、何の為に会社を経営するのか?という事についても、私自身、そういう事なのだと納得感があったのです。

そもそも会社を経営するという立場の人は、企業数が420万社としても、全人口の3%しかいないわけで、その少数に入る言わば”才能”を、最大限に世の中の役に立てる事が、会社を営む目的であるし、もっと言えば、自分が生まれて、生きて来た証だと思うのです。

経営者たるもの、そうあって欲しいと勝手に思っている所があり、その中で、利他と口にしながら、
自社の利益ばかり追いかけ、自分達が楽しんでいるだけという人を見ると情けなく思っている自分が居るのですが、逆に、こんな風に、腰を据えて、そもそもの所を追求しておられる方に会うと、自分は思っていても、全然何もできていないと、自暴自棄にも陥ってしまうのです。

今期、ウエダ本社では、改めて自社をモデルにしながら、日本のオフィス、職場の在り方を研究して参ります。

自分の才能とはおこがましいですが、よく評価して頂く点として、幅広い人脈や、その多様な人を繋げる役割、という事がありますが、それを世の中の役に立て、オフィスを対象としてきたウエダ本社として、日本でも全然開かれていない硬直化した企業の職場環境を変革する事に、全て振り向けていこうと思います。



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