2013年8月31日土曜日

シンプルに楽しんで

ついに大台に突入してしまいました。

たくさんの方からお祝いメッセージ、社員や、他何人もの方からもサプライズプレゼントを頂き、本当に有難うございました。

10年というのは一つの節目で、思い返してみれば、いつも大きな転換期になっています。

がむしゃらに働いた20代、厳しい会社でしたが、その中で誰も経験していない事や、色々な経験をした事は、誰に対しても自信の持てる資産となりました。

30歳の時、一生居たいか、居たくないかを考え、自分の理想のライフスタイルを目指して会社創業し、30代後半は、倒産の危機に直面した家業であるウエダ本社に関わる事となり、自分の夢だけを追いかけていれば良かったところから、倒産すると皆に迷惑をかけるという、自分の退路は絶って取り組まなければならない立場となりました。

そして私が40歳の時、ウエダを継いでいた兄は個人創業し、気付けば、私の方が反対にウエダ本社の代表となっており、10年というスパンは、予想もしない展開になるのだと痛感しました。

その後は、色々ありましたが、ウエダ本社を元の誇れる良い会社に戻す為にはどうすれば良いか、
そこに以前から残ってくれている社員、途中から参加した社員を、どの様に向けていくのか、どうすれば、自分達の会社と思って、自分達の大事な人生をかけた仕事と捉えてくれる様になるのか、そういう事に明け暮れて、あっち行ったり、こっち行ったりして頭を打ちながら、もがいて来た40代であった様に思います。

言わば自分の事、自分の成功のみを考えて独立した30歳から、40代は会社の事、人の事ばかりで、
自分自身の目に見える成果という点においては、停滞していた10年であった様に思います。

しかしそれは正に、この期間に勉強して来た事であり、京都流議定書などを通しても訴えている、目に見える成果だけが成長か?というポイントであり、自分自身もウエダ本社としても幅を広げる期間であり、中身の成長をした期間だったのだと思います。

そして次の10年に向けてのダッシュが切れる様に、その前には業績的にも組織的にも底を脱しておく必要がありましたが、新たな展開に入るべく(それが理由ではありませんが)、私の誕生月の8月に決算期も変更して迎えた第一期、丁度50歳を迎える年に皆で黒字転換もしてくれました。

ウエダ本社も今年、切りの良い75周年です。
9月からの新年度は、次の10年に向けて、そして100周年を、内実ともにいい会社に成長した姿で迎えられる様、新たな展開をしていきます。

この曲折を経てきたこれからの私自身の想いは、決して自分の為だけにあらず、世の為にもなる位置づけとなっていると思いますので、再度、自分自身が楽しんで、シンプルに、夢と想いに向かっていきたいと思います。

2013年8月23日金曜日

盛和塾30周年と、改めて思うこと

今週は、ほぼ盛和塾だけで終わった一週間でした。

何度か書いておりますが、盛和塾とは、今から30年前、京都の若手経営者が、経営を教えて欲しいと、当時京セラ社長であった稲盛氏に懇願してスタートしたものですが、今では海外含む70塾、約8500名の経営者が稲盛哲学を学ぶ組織となっているものです。

今週はその京都塾の30周年の例会とそれを記念しての一泊二日の海水浴ツアーがあり、最終打ち合わせ含めて、ほぼ今週は盛和塾のみの一週間でした。

そんなビックイベントがある年に、サブではあるとは言え代表世話人を受けるに当たってはかなり悩みました。

12年前、倒産寸前の会社に入る事になった時から、3期連続赤字の会社などは存在する意味が無い、そんな事にでもなれば社長を辞めると社内外に公言して経営に邁進し、その後無借金にもしてきました。
それが3年前、メイン顧客の倒産によって赤字転落となり、今期はその3期目で、この8月が勝負のかかった決算月でした。

そんなタイミングでしたので、"自分には実質の、必要以上に費やせる時間がない" と代表については固辞していました。

しかし、今期メインの代表となる永田さんから、"その為の二人代表であり、今年は自分がメインだから、岡村さんはできるところをやってくれれば良い"と言ってもらった事や、業績はまだ底でしたが、組織的には底を打っている手応えも持っていた事、そして何よりも、会社を良くする為に、私自身が一からどっぷりと稲盛哲学を学ぶ必要性を感じていた事から、最終的に代表を受ける事にしました。

そんな中で、京都塾の30周年=盛和塾の30周年とも言える例会と翌日からある一泊ツアーには、想いを持った全国からの塾生が集まられるので、どの様におもてなしするか?どんな出し物をして、どんなお土産にするか?記念の映像や記念誌などはどうするか?などが話され、そんな中から、コーラスや和太鼓も自分達で行なうと事が決まっていきました。

やってくれるのはいいけど、代表なんだから自ら率先してやるべき!と思う気持ちと、その状況下で必要以上の事に時間を費やしている場合ではないという気持ちで悶々とした数ヶ月でしたし、実際の所、練習にもあまり参加できませんでした。

そんな状況も永田代表と共に事務局世話人の藤本さんが理解して、他の準備も自分達で進めてくれ、コーラス、和太鼓については隙間時間に、スマホで自主練をしました。

そして迎えた例会当日、遠くはブラジルからも含めて約1200名の塾生が全国から集まり、二人の経営体験発表と塾長の問答が行われた後、懇親会が始まりました。

私の仕事はここでの挨拶だったのですが、今まで色々挨拶も行なってきた中で、恐いという気持ちになったのは初めてでした。

それは1200名を前にしてという事、稲盛塾長が目の前で聞いておられる事だけでも大緊張ものですが、その稲盛塾長に30数年前、数人の社長が頼み込んで指導を仰がれ、その後、25名のメンバーで設立された勉強会に、時間など全く取れないと言いながらも、一回一回塾長が皆の想いに応えていかれた積み重ねが、30年経ってこれだけの人数に広がり、その繋がりの中で、その発祥の地の周年の挨拶を、塾長とチャーターメンバーや諸先輩方の前で、学びも少ない、しかもそのイベントでろくな働きもできていない私が偉そうに話せない、本当にそんな気持ちになったのでした。

考えていた内容を変えて自分の気持ちで話させて頂きましたが、挨拶の大きな意味、役割を考えさせられました。

その後の難関は京都塾生70名でのコーラス。

70名もの経営者が4ヶ月の間に十数回の練習を重ねて、と言いたい所ですが、皆忙しいですから、全員集まる事はなく、まともにはできない中、それぞれ自主練も重ね、指導をして頂いた同じ塾生の吉野さんの、見事な、褒め、なだめのリードで、結果、替え歌"塾長に会えて良かった"を熱唱し、想いを感じて頂いた事もあるでしょうし、大変な労をかけて行なってこられた事を思い出された事もあるのか、塾長も感極まられるというシーンもあり、我々も声をつまらせました。

そんな感動の例会の翌朝は、バス7台を連ねての宮津へのツアーでした。

これも旅行会社さながら、綿密な打ち合わせと詳細な台本までを作ってくれた藤本世話人の数ヶ月に渡る獅子奮迅の活躍で、280名もの方々を引率し、海岸での屋台設営、各種アトラクション、翌日の観光、それぞれの帰路まで、全て問題なく終わらせる事ができました。

この日も、海水浴終わって皆さんが休憩されている間にも、我々は太鼓の直前リハを行ない、そのまま夜の懇親会に突入という、運営から出演からの目まぐるしい状態で、懇親会の初っ端、和太鼓の披露となりました。

こちらは、日曜日夜に4時間の練習を3回だけという状況でしたので、これも専ら各自が映像を見ての自主練を重ね、これも指導して頂いた塾生であり、太鼓センターの東社長の見事な作曲、演出、指導のお陰で、東さん自身、こんな拍手はなかなか無いと言われる程、皆さんに喜んで頂けるものとなりました。

懇親会最後は又、締めの挨拶でしたが、ここではもう殆ど終わった気分で、前日の挨拶とは打って変わって、リラックスして、自分の気持ちそのまま話させて頂きました。

その後は会場を移して稲盛塾長もお付き合い頂いて、ほぼ全員参加での二次会、京都塾だけでの打ち上げ、それでも感激は治まらず?の、部屋に集まっての会は3時まで続きました。

どんな勉強でもそうですが、その事以外が大変勉強になります。
特に経営などは、机上で勉強できるものではなく、経営者が如何に人間力を高められるかだと思います。

近くで見ていると、稲盛塾長が、騒がしくなった会場の中でも、アトラクションであったり、我々のスピーチなどに対しても一番真剣に耳を傾けておられる姿や、80歳を越えられて、大変疲れておられるにも関わらず、全ての行程にも参加され、遊泳においては自ら率先して泳いで行かれる姿などを見ると、一発で魅了され、だから人はついて行くだろうなと感じました。

決して言葉だけではないのですね。。

あの巨艦JALまでもが、二年で変わったのは、まやかしでも何でもない事も良く分かった気がしました。

他の塾生さんや、一緒に動いてもらう世話人の考え、取り組み方も勉強になりましたし、本当に実りと心地よい緊張感と疲労感に包まれ、最終日は天橋立、伊根町の観光の道中、帰り道もずっと、バスの中では爆睡状態でした。

次年度に向けては、私自身が腹落ちした盛和塾の素晴らしさを、あまり出席されていない盛和塾生に浸透させる事、そして 塾生である社長が、各社に稲盛哲学を浸透させてもらうフォローをして、良い会社を広げていく事に尽力していきたいと思いました。

またまた、お前が言うな!と言われない様に、自分から精進致します。

2013年8月18日日曜日

無駄時間のススメ

今回、休暇ではありましたがNYに行って、刺激を受ける事もたくさんありました。

その中でもひょっとすると一番有効であった事は、無駄時間だったかもしれません。

今回、成田経由だったのですが、成田から片道12時間半の飛行機は、如何にも長いなあと思っていました。

以前から積んだままになっている本も数冊持って行ってましたが、結果的には、行き帰りで映画5本と、読書した切欠から、堰を切ったよう様に考えが出てきて、今後の展開などを考える、有意義な時間となりました。

考えてみれば、最近それこそ本を読む時間さえとれていないという状態を続けていたので、じっくり考える時間など全くとれていませんでした。

ただ、ここ最近の、時間に追われた感の中で"考えなきゃ"、と机に向かって考えていても、良い考えは出なかったと思います。
しかし今回は、無駄だなあと思う中、この際、映画も思い切りみてやろうと思って見ながら、その合間に本を読み出すと、ふと考えが出てきて、その後はノートに向かい、改めての今後の展望から、盆明け直ぐの自分自身のやるべき事まで明確になり、これが一番、休暇を取った中で、リフレッシュできた事となりました。

何でもそうですが、一見、無駄な事が、重要な要素となっていたり、効率ばかり追いかけていても、結果非効率になっていたりする事はよくあると思います。
正に、今の日本はそんな所で詰まっているのだと思いますし、オフィスにおいても、一見、無駄なスペースが、有効な"場"となり、価値を生む、そんな方向を目指している私自身が、無駄時間を持てていないというのは、逆行した話になっていました。

こんな話をすると必ず、"そうそう、だから無駄時間や遊びは必要なんだ"、と、自分を慰める人も出てきますが(笑)、あくまで、前提は普段詰め切った状態があるから無駄が効くのであって、その為には、やるべき事、必要な能力、機能を備えなければなりません。

そういう意味でも、分かってはいるのですが、うちの会社で何が足らないかも再度明確にする事ができましたし、どの様な状態が良い循環をもたらすのかも良く分かりました。

私自身が無駄時間を持つ事、つまり、現場にいない事、やっぱりこれが、一番うまくいく形でしょうね。

大きく頷くうちの社員や、会社や組織に勤める方も多いと思いますが、肝心なのは、その為にはどうする?です。





2013年8月14日水曜日

JFKで独り言

今、NYのJFK空港で、書いてます。

二日休ませてもらって、四泊六日で行っていました。

NYは二十年近く振りだったのですが、その街の変貌ぶりには驚きました。

何せ、街が綺麗で、全く、危険な感じがしないのですから、聞いてはいましたが体感すると驚きでした。

実際には、色々な策があったのでしょうが、そのベースとなっているのは、90年半ばに登場したジュリアーノ市長で、就任当時から、NYを安全な街にする!と宣言され、割れ窓理論を用いての、地下鉄などの落書き消しを徹底されました。

前回行ったのが、丁度その前であったので、その話を聞いた際、理屈は分かるけど、そんなの理想の話だと、私などでも思った程です。

ところが、できるもんですね。

本当に、落書き一つなく、子供も一人で放ったらかしでも大丈夫か?と思う程、全く危険な雰囲気がありませんでした。

やはり、無理だと思って諦めてしまう事、皆がやっているから自分もルールを乱してもいいのだ、とか、或いは、誰もやっていなから自分だけがやってもしょうがないとか、自分は関係ないとか、そんな人々の心理が、集団になっていくと、恐ろしくもなり、素晴らしくもなるのだと、目の当たりに感じた気がします。

又、安全な感じは好景気が人々の心理を穏やかにしている面もあるのかもしれません。

やっぱり、海外はイイですね。

狭い日本、小さい業界だけで考えていると、どうしても発想が貧困になるし、明るい方向に行かなくなりますが、やはり、うちメンバーや若い人達にも、海外に出て、発想を広げて欲しいと思います。

ちょっと年寄り臭くなりましたが、20年前には、年間の内、半分くらいは海外で過ごしたい!そんなライフスタイルを夢見て独立したのに、何か、小さい世界で閉じこもり、勝手にもがいている様にも感じました。

そういう意味では、リゾート地でゆったりという休暇ではありませんが、気持ち的には、リフレッシュという感じではないですが、少し転換できた様な気がします。

そんな事をつらつら書いている間に搭乗時刻なのですが、とりあえず40分遅れです。

これくらいは、しょうがないですかね。

2013年8月3日土曜日

コペルニクス的転回

決算期を変更しての第一期も今月で最終となりました。

約一年前、皆には底打ち宣言をしたとは言え、まだまだ3歩進んで、2、5歩下がるといった日々を送っています。

しかし今期は、うちの会社にとっては、大転換期となりました。

長年に渡り、いや、ウエダ本社に来た時から、自社が全国に向けて発信していく事、自社が頭に立ってプロジェクトをコーディネートする事、そして、企業とも単なる物売りではなく、パートナーとして継続的に取り組んでいく事を目指してきました。
それが漸く、いくつか目に見える形として手掛けられる様になったのです。

当社主導で全体の絵を描いた国立大学の新設案件、青山での大規模なシェアオフィスビルの全面施工管理、そして今朝日経新聞にも載っていた、関西で最大級となるリノベーション物件のプロデュース。
これらは計上される数字面でのプラスどころではなく、ウエダ本社にとっては、天地がひっくり返る程の、正にコペルニクス的転回なのです。

ここのポジションに持って来ないと、激減していく卸や下請けとしての付加価値や存在意義が、消え失せていくのは見えていました。

ここのポジションに立つ為に色々な活動も行なって来たと言っても過言ではありません。

この間の変化で、方向が違うと辞めて行く人も居ましたし、これからも有りますが、それは止むを得ない事だと思います。

しかし、でき得るならば、ずっと苦労して来てくれた旧体制からのメンバーも、最終的には羨ましがられる企業の社員、もしくは幹部、そして社長とまでなってもらいたいと思ってきました。

先日来、中途採用の面接を行なっています。
辞める人の補充もあるのですが、ここからは人員の補強も、少しは余裕の持てる様に、以前から居るメンバーとうまく連携してくれる様に、積極的に進めていきたいと思います。

これも昨日発表されていましたが、一昨年、昨年と続けてリニューアルした当社の南ビル、北ビルが合わせてノミネートされていた日経ニューオフィス賞では優秀賞とはいきませんでしたが、近畿ブロックでの特別賞として、リノベーション賞を頂きました。

来期は、ビルも組織もリノベーションする会社としていこうと思います。