2008年8月31日日曜日

あとがき①~ 全ては必然、経験に勝るものは無し

社員を含め若い人達に、私自身の経験から知って欲しい事はたくさんあり、それをこのブログで読み取って欲しかったのですが、その中でも特に伝えたい事を何週かに分け、あとがきに変えて書かせて頂きます。

まず一点目は、何が幸いするか、災いするかは分からないという事、経験が何にも勝る強みになるという事です。

誰でも苦労は嫌だし、嫌な事からは逃れたいと思います。
しかし長い人生、それで通せるわけはないので、そうすると、苦労や嫌な事にぶち当たって行った事は、全て勉強になり、これ程強いものはなく、どんなに机上で勉強した所で、実際やった事には勝てません。

私は、ウエダ本社で社長だから皆に偉そうに言っているのではありません。
厳しい瀧定という会社で、いきなり梯子を外される様な酷い経験もした事、それを逃げずに乗り越えて来た事が大きな自信となりました。
いきなり梯子を外され、悔しくて辞めようと思った時、そのまま辞めていたら、自分はどうなっていたか?
まず、全く違う人生になっていたと思います。

仮に、同じ様にウエダ本社に入る事になっていたとしても、そういう経験もなければ、とてもあの厳しい局面には向かえなかったと思います。
又あの時に辞めなかったから、その後独立した際にでも、実績を見てもらって伊藤忠商事に契約してもらう事ができたと思いますし、それを基点に拡げていく事もできたのです。

自分のお金で事業を立ち上げた経験は、創業するからには倒産や、失敗して路頭に迷う事も覚悟して立ち上げたので、腹を据えて物事を行う事の経験も積んでいました。
又1円の重み、大切さを感じる事ができたので、事業でお金を使う場合には、絶対に死に金にしないという意識もこの頃必然的に身に着けられたと思います。

倒産の危機に面したウエダ本社に入ってからも、大げさではなく命懸けで改革に取り組んでいましたが、大企業であれ、賢こい人であれ、サラリーマン感覚で命が懸かっていない人には、絶対に負ける訳がないとも思っていまいしたので、厳しい交渉などに向かう事ができました。

中、高でのヤンキーグループとの付き合いでも、それなりの修羅場もあり、そういう面でも、多分真面目な人生を歩んで来た大企業のエリート達に負ける訳がないとも思ってましたし、その付き合いの中から、地位などで偉そうにするのは格好悪い、本物は謙虚で、実力で勝負するものだという事を感じる事ができたり、その後の考え方にも大きな影響を与えられました。

IT系の会社の役員になり、ウエダ本社に持ち込んだ商材は、失敗しましたが、ネットバブルの頃にIT系のビジネスや、考え方を見れた事は、その後の私の考え、展開に大変役立っています。

今回ブログで、小学校二年の時の気持ちから綴っていったのは、物事は全て繋がっていて今がある事、それだけに私は、自分に起こる事は必然なのだと思って、向かっていく様にしていますが、そうすれば、必ず良い方向へ行くし、その時は良い結果ではなくても、それ自体が大変な経験となり、いずれ何処かで繋がり、机上では考えつかなかった展開になっていくのだという事を分かって欲しかったからです。

若い人が、自分に合う仕事が分からないと言って、ろくに何もしていない姿をよく見ます。
そんな事は当たり前で、そんな事を言っている人は、いつまでも何かしたいと言いつつ、ずっとその場に居る人生になってしまうのだと思うのです。

2008年8月29日金曜日

北海道移住プロジェクト

先日素晴らしい風景と共に少し書いておりましたが、8月5日~19日までの
二週間、以下の<a href="#">プロジェクト</a>にのって、清里町という所に行っておりました。


ビジネス的に北海道で考えている事があるのですが、ある方からこのプロジェクトのお誘いを受け、盆を絡めると空けるのは実質1週間だけなので、観光では分からない北海道を知る為にも無理をしても行くことにしました。

清里町という所については全く知らず、今回初めて聞いた名前でした。

今回テレワークという事で総務省が行なった意味は、ブロードバンドを利用してお父さんさえ仕事ができれば、東京本社に勤めなくても、地元で生活できる、今荒んだ世の中、北海道という特に子供達には環境のい良い所で、家族揃って住めるじゃないですか?という、ワークライフバランスの意味合いも大きくあるものでした。

私は、会社の存在意義や価値を考えていくと、日本の場合は特に、農業を中心とした第一次産業を推進していかなくてはいけないのではないか?何かいずれ関われないか?と考えていました。
そういう意味で北海道には興味を持っていたのですが、今回その思いを強く持ちました。

清里町に着いてまず、あの農村風景に驚きました。
まるでヨーロッパの様な農村風景で、しかし、農作業をしている姿を見受けませんでした。
日本の農業と言えば、高齢化が進み、小規模農家が多いイメージを持っていましたが、そこには全くその姿はありませんでした。

それもその筈で、清里町の農家の一軒の平均作付け面積は40haとの事で、これはEUでも25~26ha程だったと思いますが、ヨーロッパを遥かに凌ぐ数字なのです。

今回この二週間の滞在での日記も少し綴ってみたいと思います。
これは二週間滞在した家の近くから見た斜里岳です。



こんな風景を毎日見ながら生活していました。

2008年8月26日火曜日

ウエダ再興記~ 終わりに

ウエダ再興記を書き始めてから丁度1年が経ちました。

書き始めた頃は、5月の式典までに、何故この様なイベントを行ったのか?何故ウエダ本社が京都流を運営するのか?
DO YOU KYOTO? DO YOU KYOTO-STYLE?の意味合いは?などを書き綴り、イベントまでに書き終わるつもりでした。

しかし思わぬ反応で、取引先、新規に訪問される方などの他、周りの経営者達や、驚く様な大企業TOPの方々にも見て頂いていることが分かり、お陰様で週一ではありますが、継続する事ができました。

当初から全体の構成があったわけではなく、各週で考えて書いており、正直時間の捻出に困る事もありました。
そんな調子で書いていたのと、途中から、丁度1年に当たる50話で終了しようと思い書いていたので、起承転結のメリハリがついたものにはなっておりませんが、一つ一つの話題で、もっと書ける話を、かなり端折って書いていましたので、中身は有ったのではないかと思います。
そう言えるのも、多くの方から、”生々しく書いていますね”と言って頂いていた様に、全てが実録であったからです。
それでも、当然公開する事ですので、書けない事が多かったですが。

この後は少し、いくつか頂いた質問に答える事と、本編で書けなった、ウエダ本社の社員には勿論、若い人達にも伝えたい事を、
あとがきに代えて書かせて頂こうと思います。

2008年8月24日日曜日

ウエダ再興記(最終回)~ DO YOU KYOTO?イベントと粋な会社

5月1日ウエダ本社70周年記念式典。
GWの合間という事もあり、残念ながらご出席頂けなかった方もおられましたが、それでも京都の重鎮が皆集まられたのではない?と言って頂ける様な方々総勢220名に、会費制でご出席頂きました。

ご祝辞を頂いた山田知事、門川市長、前原民主党副代表、ご講演を頂いた堀場雅夫氏(堀場製作所最高顧問)、同じくパーティーでご祝辞を頂いた京都商工会議所副会頭の柏原康夫氏(京都銀行頭取)、渡部隆夫京都経済同友会代表幹事(ワタベウエディング社長)、、参議院議員の福山哲郎氏、これだけの方々が挨拶だけでなく、長時間ご参加頂くという、奇跡にも近いスケジュール調整をして頂く事ができました。

その中で、粗相がないかと終始ひやひやものでしたが、目だった問題もなく、東儀秀樹さんの心に染入るコンサートもあり、皆さん満足して帰って頂けたと思います。

息つく間もなく、終了後は2日伝統文化・伝統産業、3日教育テーマの一般向けイベントに向けて数人が泊り込みで用意を行なってくれました。
普段企業相手の我々が、一般の方々相手にしっかり対応できるのか?講演にお越し頂いた方々に粗相なく対応ができるか?
しかもたくさんのプログラムがあり、その時間調整は大丈夫か?
終日に渡り、緊張が続きました。

又、各分野で人気のある方々にセミナーをお願いしていながら、私の主旨で宣伝も自前で行なった事により、集客でききれなかった面があり、大変心配しましたが、出演者の皆様からは、”よく自前でこれだけの事をされました”と労いの言葉を頂く事ができました。

社員達は皆本当によくやってくれ、3日間、滞りなく終了しました。
社員達に求めた事で、最も期待以上の結果を残してくれたものとなりました。

お手伝い頂いた宅間氏の提案もあり、イベント終了後に打ち上げをする事にしました。
ハイアットの方には、当日朝にお願いしたにも関わらず、そうとは思えない料理を揃えて頂き、最高のおもてなしをして頂きました。

冒頭の挨拶では、
厳しい状況のウエダに入る腹を決めた事、このままでは倒産すると思った瞬間、何と思われようと立て直す事が自分の使命と思ってやって来た事、悔しい事の数々、その事で強まっていった、輝いていた頃のウエダへの思い、社員に自主性を発揮させる、難題に挑戦する経験をさせる為、このイベントに大きな賭けをして来た緊張感からの開放と、それに応えてくれた社員達、初めてこれでウエダも大丈夫だと思えた事、京都を知っていくにつれ、その素晴らしさと共に出てくる問題意識と、それらに対して発信して来た事、多くの人が賛同し、協力してくれた事、そして何よりも、社員達の頑張りでこの時点でも大成功と言える結果であった事、これらのたくさんの思いが錯綜し、不覚にも言葉に詰まってしまいました。

そしてこのイベントで、ウエダで経験して来た多くの問題に対して漸く、自分の中で一区切りが打てた様に思います。
初めに非常勤で関わってから9年が経っていました。
赤字脱却に必死だった当初からは、想像することもできない70周年イベントを盛大に行う事ができ、”現在の”ウエダ本社の為に知事、市長始め皆さんに駆けつけて頂き、事務機のウエダから京都におけるウエダ本社、京都に発信するウエダ本社を見て頂く事ができたと思います。

難局を乗り越え70周年を迎えたウエダ本社は、次のステージに入って行きますが、今後さらに京都流の価値観を学び、京都流の考え方で、京都流的に粋(すい)な会社を目指して参ります。

2008年8月17日日曜日

ウエダ再興記(49)~ イベントの葛藤と意義

各方面の方々に協力と支持を得ていかなくてはなりませんでしたので、初めは一人で動きまわりました。
我々の主旨と熱意に賛同して頂き、殆どの方に二つ返事で協力をして頂けました。
ある程度の出演、後援の協力が得られた段階から、運営は社員達に任せました。

ウエダ本社での営業上の課題は、指示待ち型から脱却し、自ら切り開いていく社員の養成と、ホスピタリティーを持った社員の養成でしたので、自分達で考え、一流のホスピタリティーを持たれたハイアットの方々と、協業させて頂く事は、お金では換えられない貴重な実地体験になると考えていました。

しかし、実際初めから動いてくれていた数人のメンバー達も、私の意図を諮りかねていたのと、やらされ感で動いているだけの社員との板ばさみに合い、苦労していました。

これだけのイベントを素人だけでは無理だから、うちで仕切りましょうか?そう言ってきてくれる専門の会社もありました。
”社長の考えが分かりません”そう社員にも言われました。

”これだけの方々の協力を得ていて、失敗したら、とんでもない事になる”その恐ろしさはずっと持っていましたが、私もイベントなどはやった事がないからこそ、私が仕切るのではなく皆の力でやってもらう事、社員達が分からない、やれそうにないと
いう事に対して、皆で力を合わせて達成するという経験をしてもらう為、ずっと我慢していました。

しかし同時に、協力して頂いた方々に迷惑は掛けられない事もあり、当日の仕切りなどは、いずれ依頼しようと考えていました。
ただ、それを初めからやってしまうと、皆が当てにしてしまうので、残り1ヶ月半程になった頃、社員達で全体像を作ってから、以前から面識のあった宅間氏にその部分の仕切りを頼みました。
そこから皆が、自分達だけで動いてくれた様に思います。

動いていく内に思わぬ副産物もありました。
DO YOU KYOTO?という言葉が、欧米の環境に取り組む人々の間で共通語になっているのに対して、肝心の京都人が知らないというお話を、門川教育長(現京都市長)から教えて頂き、そんな馬鹿な話はないとイベントのテーマに取り上げました。

ところがイベントの後援申請を行ううちに、何と京都府が早くからその言葉の商標登録を持っているという笑えない話が判明しました。
この事は山田知事もご存知なく、こんな馬鹿げた勿体無い話はないので、是非再発信して下さいとお願いしたのですが、これなどは、縦割りになっている京都を、民間の立場で草の根的に動き、色々な融合を興していこうとした、イベントの主旨に沿う効果の一つであったと思います。

2008年8月12日火曜日

実は・・

実は1週間前から京都を離れ、こんな所に来ています。



フランスの片田舎・・・・と、言うのは嘘で、この風景は何と日本です。

どこか分かる方はおられますか?

こんな風景は多分北海道にしかないでしょうから、北海道は間違いないのですが、
北海道でもこんな風景はなかなかないと思います。

こんな風景を持っているのは、清里町という町で、又詳しくレポートしますが、
あるプロジェクトに乗っかり、1週間前から来ています。

皆さん暑い夏をお過ごしでしょうが、2,3日前こちらは、最高気温が18度という
涼しさで、殆ど半袖しか持って来ていない様な状態ですので、夜には思わずストーブをつけようとしたぐらいです。
嫌味でしょ?(笑)

では又!

2008年8月10日日曜日

ウエダ再興記(48)~ 70周年イベントへの思い

70周年のイベントを考えたのは、11月になってからだったと思います。

それまでは式典なども何も考えていませんでした。
ただ、京都流を運営する様になってから、自社のルーツ、成り立ちなどには興味を持つようになっていましたし、以前輝いていた時代に行なっていた様なウエダ独自のイベントは、いつか行いたいと思うようになっていました。

又、京都流サイトを展開していくにつれ、伝統文化や伝統産業、教育など、それぞれでイベントの必要性を感じていたり、それぞれに対して問題を感じる様にもなっていました。

それなら70周年のイベントを開催し、京都の政財界の方々にお越し頂き、そこでそれぞれに関するイベントを行えば、来て頂いた方々に問題提起を行なえるのではないか?
そう考えてみると、政財界の方々と、伝統文化、伝統産業の方々、それに教育関係者が一同に関わるイベントなど今までなかったのではないか?
それを民間の立場で行う事により、何か融合を生んでいけないか?
その様な事をできる立場にある会社は、無いであろうし、それを行う事は会社の存在価値を見出す事に繋がるのではないか?そう考える様になりました。

以前から、考え方のスマートさに共感を持っていたハイアットリージェンシー京都の総支配人に話をしました。
総支配人は、即座に”是非協力しましょう。”ただ、大変面白い企画なので、一般の方も回遊できるイベントにしませんか?”と言われました。
一般と言われても、70周年のイベントも行わなくてはならない・・という様な事から、結果今や京都で一番とも言われるハイアットリジェンシー京都で、3日間行うという大イベントとなったのです。

この時点で決めた事は、環境、文化、伝統産業、教育という別々のテーマを一同に集める事、それぞれの分野で、格という事を考えず、本当に良いと思う人、団体に声がけするという京都流の主旨を通す事、これら各分野の方々が集まったイベントを
京都府、京都市、商工会議所、経済同友会という、オール京都が認めるというものにする事、又それらを広告代理店なども入れず、自分達の手で行なっていくという事でした。

普通の周年イベントでさえ、1年前から企画したりするものを、とんでもないスケールで、一般の人も回遊するイベントで、しかも仕切り役のプロも入れずに半年で行おうとしたので、、色々な方から無謀だ、無理だと言われました。
しかし、経営をしていると、無謀と分かっていてもやらなくてはいけない時はあるのと共に、これ位の壁を破れない様では、ウエダ本社としても次のレベルには行けないと思い、賭けてみることにしたのです。

又京都を変える為にも、色々な素晴らしいコンテンツを融合させていかなくてはならないし、その為には我々の様な下のレベルの人達が草の根的に行なっていかなくてはいけない、そう頑なに思い、自分達で行う事に拘ったのでした。

2008年8月3日日曜日

ウエダ再興記(47)~ 盛和塾と経営品質

元々ウエダに対しての愛着というものは持っていませんでしたが、昔は輝いていて良い会社であったことが分かるにつれ、又ウエダに入って悔しい思いも数々経験するにつれ、良い会社にしたいという思いが強くなりました。

初めは自分の為に会社を創業した私が、ウエダに入ってからは、せめてウエダに残った社員や、その後待遇も良くない中、ウエダにかけて入って来てくれた社員達が誇れる会社にしたいと思う様になりました。

負債の処理も落ち着いた頃、京セラ創業者である稲盛氏がボランティアで指導されている盛和塾に入れて頂きました。
そこではたくさんの教えがありますが、その中でもまず経営者は、”全従業員の物心両面の幸福を追求しなければならない”とあります。
経営者は例え小さい会社でも、社員の人生を預かっているわけですから、”誰にも負けない努力をしなさい”など、自分を厳しく見つめる事を求められます。

その後経営品質という考え方にも出会いました。
これは、製品やサービスそのものの品質ではなく、経営の質に注目した考え方であり、そのベースは、社員満足、顧客満足、独自性、社会との調和というものです。

思えば、社長は偉いものではないと言って、父親に反発した小学二年生の時からそのベースはあったのかも知れませんが、ウエダという株式会社に入ってからは、存在意義も含めて”社会との調和”を考え、その後の数々の経験から、心底どうすれば社員が生き生きとした人生を過ごせるか?という”社員満足”を目指す様になりました。
瀧定時代の経験から、独立した際には、小さくても”独自性”のあるビジネスを心がけていましたので、これら経営品質の考え方は、自分でも分かっていなかった私の考えを、明確化してくれたと思います。

成績は黒字転換し、会社の雰囲気はよくなり、挨拶などは訪問された方から褒めて頂ける様になりました。
しかし、これら成績はウエダの独自性で生み出せたものではなく、卸や下請けで身についてしまった受け身体質から、なかなか脱却できませんでした。
挨拶などはできるのですが、何故か、その割に一体感が乏しい組織でした。

ここから脱却できないと、私の考える良い会社などというものには到底成りえません。
どうすれば自主的に動いてくれるのだろうか?自分達の会社、自分の人生として捉えてくれる様になるのだろう?
これらずっと悩み続けている問題も、何とか払拭できないかと思い、Do you Kyoto? Do you Kyotostyle?イベントにかけてみる事にしたのです。