2007年11月30日金曜日

京都流社説 1万人割れ

何人かの方も書かれていましたが、今年初めて、受験者が1万人を割りました。

1級の受験者は大幅に増えたという事ですが、やはりこの、取ったらどうなるの?という事に対して充実させていかないと、これからも難しいのではないかと思います。

1級は人気しているという事は、今年又多くの1級取得者を生み出すわけで、最初の36名の方から含めて同じ枠の中で良いのか、それだけ多くの1級者は、京都検定では”アガリ”になってしまって良いのか?などたくさんの問題があると思います。

京都流としても検定取得者の活動の場など、働きかけは行なって行こうと思いますが、もう一度京都検定は何の為に行なうのか?を見つめ直す必要があると思います。

2007年11月25日日曜日

ウエダ再興記⑬~ ウエダを廃業させてもらえませんか?

今回の再興記は久しぶり?の海外、ベトナムからの寄稿です。
又、いずれベトナム(サイゴン)日記でも書くようにします。


ウエダにはその後、たまに訪問するようになりました。
いくつかの商品を入れましたが、ウエダで売れた商品はなかったと思います。

ウエダには一時期大変優秀な中国人が居ました。
父親が身元保証人になっていた人で、京都大学の経営工学の博士を取得していたのですが、ビザを更新する関係から何処かで勤める必要があり、ウエダで雇っていたのです。

私が何度か訪問するうちに、いつも彼からウエダの愚痴を聞く様になりました。
愚痴と言っても建設的な話で、経営工学博士ですから、改善策を次々に提案したり、
中国とのビジネスの話をするのですが、父親に話しても当時社長であった私の兄に話ししても全く進まないので、私に何とかできないかという話でした。

私もウエダに色々提案しましたが、染み付いてしまっている体質、社内的な問題なども垣間見ていましたので、ウエダで新しい事をやるのは無理だと思っていました。
ウエダでは新しい事なんてできないから、”諦めて私の会社(エムズカンパニー)とやって行きましょう”と言っていたくらいです。
その頃まではそんな他人事でいれたのでした。

ところがある時、子会社の代表者から相談を受けました。
ウエダ本社はずっと赤字でどうしようもないのに、又大変な失政を行なっている。
このままでは倒産すると思うが、それでは自分達も共倒れにはなってしまうので、
自分達(子会社)を切り離して、ウエダ本社は廃業させて欲しいというものでした。

それを聞いた時は、まだ何も対策を打たない間から、それはないだろうと思いましたが、私はウエダとは株主でもない、全く関係のない人間ですから、私には何の権限もありませんので、”オーナーである父親と話してもらって、父親が納得すれば私はそれでいいですよ”と言いました。

エムズカンパニーを設立した時でもそうですが、常に私の考えには、会社は誰の物か?会社とはどういうものなのか?という事がベースにあります。
エムズカンパニー設立時には、規模の拡大をするつもりはなく、小さくて独自性のあるビジネス展開をしようと考えていましたので有限会社に拘りましたが、まず会社とはどういうものか、どうしていくのかを考えて運営していかないといけないと思います。

そんな考えがベースですので、たまたま会長が父親で社長が兄であっただけで、一株も持っていない私は、全くウエダには関係のない人間なのです。
この基本的な事を分かっていない人が世間には多いというか、殆どの中小企業は間違っていると思います。

しかしこの意味合いがなかなか分かってもらえず、この後揉める事になっていくのでした。

2007年11月21日水曜日

マンガ学科と京都国際マンガミュージアム

昨日、京都精華大学のマンガ学科の牧野教授にお目にかかってきました。

牧野先生はマンガミュージアムの研究センター長も兼務されており、マンガ教育ともいうべき分野を開かれておられる方です。

大変お忙しい中、長時間お話を聞かせて頂き、私のマンガに対する概念が全く変わりました。
その際も申し上げたのですが、お話を聞いて感じたのは、マンガを描くには、右脳と左脳が両方使われないといけないという事です。

勿論、感性が良くないといけないですが、それに加えて、ちょっとした絵や、短い一言、擬音語などでその状況を見事に説明するという事は、それを実現するためには、全体を体系的に掴み、論理的に解釈もできないといけないわけです。

牧野先生はマンガで色々な表現ができるという事を示し、色々な道を切り開いていこうとされていますが、その切欠となったのは、その後、精華大の教授に迎えられた
竹宮恵子さんが、エルメスの社史をマンガで描かれたいたのを見られたからだそうです。

こんな事も日本ではあまり知られてないと思います。
あのエルメスが社史をマンガで作り、パリの店においているそうですが、そんな凄いことを日本人はもっともっと生かしていくべきだと思いました。

ましてや京都には、世界に一つのマンガミュージアムもあるのですから、今後こういう資産も有効活用して行きたいと思います。

2007年11月18日日曜日

ウエダ再興記⑫~ 営業代行とウエダとの関わり

体系的に展開できるビジネスを作らないといけない、そう思って言わば繊維業界に見切りをつけた私は、商社に出入りするという事を強みに、色々なビジネスコーディネートを行なうようになりました。

世の中には、凄い技術力を持っているが販売力がない会社、ネタは持っているが商品化できない会社がある一方、縦割りの中の一つの業界しか知らず、その中だけで永年同じアイテムを、全く同じアイテムを持っている多くの競争相手と狭い世界で戦っている多くの会社があります。

それらをうまくコーディネートするだけで、埋もれている商品が陽の目を見たり、余計な競争をしなくて良かったりするという構図が理解できていましたので、販売力のない会社の代わりに営業代行という肩書きで商社などに提案する動きを行なっておりました。

いくつもの、又様々な商社に出入りしていると、面白い事に色々な商品、情報が集まる様になりました。
そんな動きをする様になったある時、文具・事務機ルートに売れないか?という商品があり、創業して2,3年目かにウエダと文具・事務機業界に出入りする様になりました。

小さい頃から父親の会社には絶対入らないと言っていて、必要以上に親の世話になりたがらず、会社も全くウエダと関係なく立ち上げて来た私が、少し角が取れたのか、この頃初めて、折角ある父親のルートやコネなども利用すれば良いじゃないか?と思える様になりました。

いくつか私の元に持ち込まれたネタを、ウエダに提案をしに何度か行きました。
何度か提案しても話が全然進まない、面白い商品を取り入れようというやる気というか、意欲を全く感じませんでした。

”あんな状態じゃ駄目だ”ウエダの事で父親に初めて意見しました。
しかしその時点の私は、ウエダを何とかするという事ではなく、私に持ち込まれたネタを何とかモノにする事が狙いでしたので、他府県の同業者(文具卸)を紹介してもらい、いくつかの会社を回りました。
ところが、何処へ行ってもウエダとよく似た感じでした。
売りたくないの?と思う程、その商品のあら捜しでもしているかの様に、後ろ向きな質問、逆にチラシや販促物はどれだけ提供してもらえるか?という要望ばかりでした。
そんな完璧でフォローもしっかりしている商品なら、何処でも売れるし、そんな商品を扱ってもメリットないでしょ?
大体そんな商品なら私が持ってくる必要もないし、あなた方に相談に来ませんよ。
そこまでになってないから、面白いし、御社にとって有利な商品に仕立てられるんでしょ?
どこへ行ってもこんな感情になりました。(実際言ってましたが)

この体質がこの業界全ての体質であり、ここからの脱却が会社の命題であるという事を実感する様になったのは、後にウエダに入る様になってからでした。

2007年11月15日木曜日

出井さん

先日京都に元ソニー社長の出井さんが来られ、食事を一緒にさせて頂きました。

出井さんはソニーで創業メンバー以外で初めての社長に14人抜きで抜擢され、その後10年間社長を務められたのですが、ソニーの社長ともなるとご経験されて来た事が国を動かすレベルの話ばかりで、そのスケールの大きさと、その前に居て、経営者としての自分の知識など、本当にレベルが低いという事を痛感させられました。

そのスケールの大きさに反して、本当に気さくにしてご対応して頂けますし、御歳の事を言っては失礼なのかもしれませんが、70歳なんて信じられない、パワーと何よりも単純にダンディーで格好良い方です。

執行役員制度や、確かカンパニー制という仕組みも日本で最初にされたのは、出井さんだったと思いますし、ある意味日本の会社のあり方を変えて行かれた方だと思います。

こういう凄い方に会えると、たくさんのパワーを頂けて、向上心が沸いてきます。
経営していると日々悩みだらけと言っても過言ではないですが、あの様にスケールの大きい人になるには、こんな事悩んでいては”小さいなあ~”と思いました。
そう言えば、経営者はいじめられっ子の方が向いていると言われていました。
というのは、それ位、大変な事だらけで、それでも耐えられる忍耐強さがないととても持たないという事です。

再興記で告白していた通り、私はいじめられっ子ではなかったので、ちょっとマズイ
ですね。。。忍耐強く頑張ります。

2007年11月11日日曜日

ウエダ再興記⑪~ 有限会社エムズカンパニー設立

繊維という業界ではありますが、流通の大元に居て物の流れていく様子を見て来た後、繊維業界にはあまり関係なかった特許というものも勉強し、平成6年1月6日有限会社エムズカンパニーを設立しました。

この頃は会社を大きくする事は全く考えておらず、むしろ自分一人でもやっていけるビジネスモデルを構築し、小さい会社でも決して弱い立場にならない様なビジネスを行なおうと思っていました。
当時、ウエダ本社の会長だった父親からは、”有限会社なんて格好悪いから、株式会社にしろ”と言われましたが、体裁なんて必要のない、オリジナル性の高いビジネスをやらないと意味がないと思っていましたので、あえてその意思を表す為に有限会社にしました。
一人でも存在価値を示して相手してもらえる会社にする為には、体裁なんて必要のないモデル、商品を展開できなければ生き残っていけるわけがないと考えていたからです。

独自性の高いビジネスを行う為にまずは、輸入ビジネスから始めようと思いました。
と言っても英語も大して話せませんし、貿易など全く知りませんでした。
又、いくら描いているビジネススタイルがあっても、何もなければ食べてもいけません。

学生時代のアルバイトで一緒だった女性が、神戸の大手アパレルに行っていたのを辞め、イタリアに行っているという事を知っていたので、彼女の連絡先を聞き、連絡を取りました。
彼女のバイト時代の仕事ぶり等を考えると、海外に渡っても絶対、成果を上げているだろうなと思っていました。
連絡を取ってみると予想以上に活躍していました。
当時円高が進み、後には1ドル79円もつけた頃でしたので、日本のアパレルがこぞってイタリアに買い付けに出ていたのですが、彼女とその友達の所に、いくつもの日本の大手商社が仕事を依頼していたのでした。
商社も商品その物の目利きできるわけではないので、専門知識を持っていて、言葉も貿易も分かる日本人が居れば任した方が良いという構図になっていたのでした。

私は彼女に私の専門のテキスタイルを扱ってもらう様に頼み、彼女らにイタリア側の管理をやってもらい、イタリアから入れた生地を私が居た瀧定に販売しようと考えました。
この彼女というのが、京都流でも御馴染みのlunaparkさんです。

貿易は全く知りませんでしたし、お金もありませんでしたので、いくら元居た会社とはいえ、そのままやれば迷惑をかける事になるので、瀧定で話を決めた後、貿易事務とLC(貿易決済)を伊藤忠商事で行なってもらう様にしました。

私は伊藤忠商事と契約して、そこからコミッションを頂くというスタイルでスタートする事になるのですが、この時には本当に、あの嫌になった時期に瀧定を辞めてしまわなくて良かったと思いました。
もしあの駄目社員と思われたまま辞めていれば、まず元居た会社に出入りできていないでしょうし、伊藤忠商事が私の話にのって簡単に契約を結んでくれることなど有り得なかったと思います。

今から考えると、すごい事をやっていたと思います。
いくら、瀧定時代の実績や、瀧定との関係を分かってもらっていたとは言え、私が書いたメモだけで、伊藤忠商事が貿易相手に決済を保証してくれていたのですから。

そんな取引をしていきながら、貿易というものを勉強し、流れが分かった後は自社で直接輸出入も行ったり、雑貨などの輸入元となったりもするようになりました。

2007年11月8日木曜日

京都流社説~ 小沢代表と宮崎から見るTOPのあるべき姿

安倍総理の際も社説として書いていましたので、今回の小沢代表の問題も触れさせて頂きます。

安倍総理の際と同じく今回も、一体何なの??という感覚だけが残った出来事だったと思います。
前回も言いましたが、政治の世界の事ですし、まして小沢氏の考える事は、周囲の人でも分からないのですから、私などが分かる筈はないですが、ただ、小沢氏を見ていて昔から以下の二点を感じます。

それは、自分の描いている結果を得る為には、どういう形でも厭わないという点と、それを達成する為に一番最短でできる方法を取るという事です。

その考えているレベルが周りの人と違うので、周りには分からず、そこが小沢氏から見ると、レベルが低く見えて呆れてしまい、投げ出してしまう様な行動(言動)になるのではないかと思います。

ただ、安倍氏の場合と同じくTOPである以上、レベルが違うからと言って、”もう止めた”では困るわけで、そのレベル差を埋めていくこともやってもらわないと困ります。

又、いくら良い政策であったとしても、それはまず大原則は国民の為の政治である
訳ですから、国民不在で行なわれていく事が最大の問題です。
そこを偉くなられた政治家の先生方は、はき違えていると思います。

先週末私は宮崎に行っていました。
そこでは相変わらず、東国原知事の人気が凄いのと、驚くのはタクシーの運転手さんや一般の県民が、彼を支持していて全く悪く言わない事です。
こういう状況をみて、偉い先生方は感じ入って欲しいと思います。
タレント議員が・・なんて思っている国会の先生方がおられたとしたら、宮崎に行って、その様子を見聞きして欲しいと思います。

まず、県民(国民)主体でものを考え、何の為にそれをやるのか?という事を原理原則に基づいて行動していけば、いくら難しい国政でも、こんな風にならないと思います。

安倍氏や小沢氏は、TOPのあるべき姿という事がずれているのだと思いますし、今後TOPを目ざす政治家は是非、政策は勿論ですが、TOPのあるべき姿を勉強して欲しいと思います。

2007年11月4日日曜日

ウエダ再興記⑩~ 一生居たいか居たくないか?

瀧定の儲かる理由の一つに、アパレル等の話や情報を聞き、先読みして自分の所でリスクを抱え商品を作るという事と、営業員に企画をさせて商品作りをするという事があります。
私は元々、自社の商品では相手にしてもらえない先に行っておりましたので、企画をし、商品作りを入社二年目から行っていました。

通常テキスタイルの場合、1年位前から商品企画をするのですが、ある頃から売れ筋を当てるという事がどんどん難しくなっていくのに対して、当たれば、猫も杓子もがそれに集中し、折角出た売れ筋も、そのシーズンで潰してしまうという繰り返しを行うようになっていきました。

毎シーズンこんな事やってられないなという思いを持っている頃に特許というものに興味を持ちました。
こちらの世界では、一個開発すると、ずっとその権利で商売が出来たり、収入を得たりするわけで、それまでやっていた事とは対極の世界でした。
ビジネスというものは、もっと体系的に考え、その体系を見ながら流れを作ったり、組み替えたりしていかなくてはいけない、そう思うようになりました。

その頃年齢も29歳になっていました。
30歳という歳は男性も先々を考える年齢で、私もまず一生この会社に居たいか、居たくないかという事を考えました。
そういう視点に立ってみると、答えは即座にNOでした。
この頃はもう、評価もしてもらっていましたし、仕事も面白かったし、収入面ではかなり貰ってましたし、それ程の不満事項もなかったですが、一生は居たくない、なら、早く辞めた方が良い。
辞めた理由の一番はこの事でした。

大変厳しい会社でしたので、60歳定年という事は50歳では勝ち組、負け組みがはっきり決まっています。
50歳がゴールという事は40歳から急に伸びるという人も少ないですから、40歳で勝負はついてしまいます。
そう考えると、何て人生短いんだと思いました。
そういう中で30歳近くになると、自分の位置というのも大体わかりますし、このまま行けば勝ち組には入るだろうとも思いましたが、そうなったとして収入面は良かったとしても、それで幸せなのか?とこの時生まれて初めて、自分の人生について真剣に考えた様に思います。

私はいくら収入があっても、うまくいっても50歳で”アガリ”の人生なんて耐えられない、体が元気な間、自分の好きな仕事をしていける環境にしたい。
と、いう事は自分で起業するしかない、それが会社を興そうと思った切欠でした。

満30歳になる年の5月、7年強勤めた瀧定を退社しました。