2007年12月16日日曜日

ウエダ再興記⑯~ 京都にウエダあり

ウエダ本社は昭和13年5月私の母方の祖父である上田安則が、資本金5万円を元手に自転車5台を買い文具卸としてスタートした会社です。

この祖父は派手な事新しい事が好きで、今でいうキャンペーンガールをトラックの荷台に乗せて宣伝したり、飛行機からチラシを撒いたりという、昔では考えられないド派手な事をやっていたようです。

文具や事務機という業種の代理店というのは通常、地域代理店制ですので、ウエダは京都、滋賀の代理店であり、他の地区には同じメーカーの代理店がいます。
それら全国の代理店を集め、メーカーに向けて発言力を高めていこうと、いくつかの団体も祖父の呼びかけで作られました。
又、今でも事務機のウエダという看板を掲げていますが、昭和三十年代に事務機というものを業界に先駆けて持ち込んだ様に、常に新しい事目立つ事を考えていた様です。

私がウエダに入ってから各トップの方々にご挨拶に伺った際、"ウエダは昔全国区だった”という事を何人かの方に言われました。
私はほんの二、三年前にこれが本当だと気づいたのですが、これは決してお世辞ではなく、昭和三十年代後半から五十年代頃までは"京都にウエダあり”という感じで本当に輝いていた様でした。
余談ですが、ウエダで代表になってから、ある時シャープさんの会合に行った際、並居る大手量販店トップの方々にひけを取らないというかむしろ、こちらの方が丁重な扱いを受けた事に驚きました。
これは、シャープさんやカシオさんは計算機が切欠となって飛躍していかれたのですが、それを最初に取り上げていたのがウエダを含む、二、三社であり、その事を当時のシャープさんの上層部は分かっておられたので、現在いくら売上が多い量販店より、黎明期から商品を取り上げた会社を重要視してくれていたのです。

しかし、そんな派手好きで他人には気前の良い祖父は、私達身内からすると、全く面白みのない、ある意味冷たい人でした。
仕事の為には、身内でも平気で利用するという人で、母が亡くなる直前に言っていた話では、ずっと私の父との結婚を反対していた祖父がウエダで事務機を導入しようと思った途端、手のひらを返した様に、機械に明るかった父との結婚を勧め、父をウエダに引き入れたぐらいです。
私も普通の”おじいちゃん”などという感覚は全くなく、元旦にだけ会ってお年玉をもらうだけの人でした。
しかもお年玉を孫に渡した瞬間から、父に仕事の話をする様な、愛想も何もない人でした。
そんな人ですから、一見派手好きで外では派手にお金もかけますが、ただ単に使っているのではなく、凄く計算されていたのだと思います。

私も今まで、叩き上げの創業者を何人か見てきましたが、こういう人達は皆お金の使い方が大変うまく、生き金というか、使ったお金を絶対に死に金にしないという感覚をお持ちだと感じます。

この創業者上田安則が亡くなったのは、私が瀧定入社した年でしたので、仕事の話というものをした事がなかったのですが、特に会社を経営する様になってからは、あの愛想もくそもなかった”おじいさん”と仕事の話がしたかったなと思いました。

そんな叩き上げ創業者の祖父から”二代目”の私の父に継がれていくのですが、二代目はお金の事、数字の事が備わっていないケースが多い事に加え、見栄、体裁に拘る父の時代になっていくと、全国区のウエダも変調をきたしていったのだと思います。
そして先代が亡くなり父の時代になってから、数年間殆ど新たな手を打っていなかったのではないかとウエダに入ってから感じました。

しかしただ一つ行っていた大きな事が、私がウエダに入る事につながり、その後ずっと苦しむ事になる大失政でした。

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