2007年12月30日日曜日

ウエダ再興記⑱~ 共同物流センター

管理業務や商標料で潤っている本社に文具卸を入れ、暫くは会社として赤字が隠れた状態であったのが、それからも業績は悪化し、ウエダ本社としても赤字に転じる様になりました。
そんな状況であるのも関わらず、ここで大失政が発覚したのです。

それはこの頃、同業者で物流を協業化していこうとする流れがあり、国も物流倉庫を作る費用などを融資し支援していたのでした。
この時の京都の組合の理事長は私の父親で、同業者の物流を共同で行う会社を、組合の下に作っていくことになったのです。
しかし、この制度融資は取得した土地でないと受けられず、バブル絶頂期であったこの時期、土地を買う事ができず、計画は一旦頓挫しました。
ところが、二、三年後、定期借地の土地でも認められるようになり、ここが一番問題なのですが、この頃になるとバブルも弾け、物流自体も減っていたにも関わらず、事業計画はそのまま見直さず、進んだのです。
この時、父親は理事長を交代していましたが、ウエダの社長になっていた兄としては、父が理事長時代に決めた計画であったので、
途中で見直すという選択肢は持たず、粛々と進めていったようです。

しかし、この計画は元々、ウエダ本社という会社とすれば全く何もメリットのない話でした。
自社ビル内に倉庫も持ち、自社で運転手も抱え物流も行っていましたので、それをわざわざ移すとなると、自社ビルで倉庫も持っているのに、そこを空けて、運転手の人には辞めてもらって、物流会社のトラックを使うという馬鹿げた話でした。
ましてこの計画自体、シビアに数字面を見て作られたわけではなく、どんぶり勘定で設立する事優先で、設立資金が持ち出されていたのでした。

又、設立資金以外にも、毎年運営で一億円近い経費が出て行く上、その物流会社が赤字を出した分も、ウエダを中心として補填していかなくてはいけないという、底なしの様相でした。

この問題が発覚した事により、子会社代表が私をウエダに誘ってきたのですが、こんな経営を自分の身内が行っていましたので、切り離して欲しいという事自体は、その立場になると、当然の心情でもあると思いますし、一番悪いのはそんな大失政をしていた経営者(私の身内)であると思います。

これが一番大変な問題ではありましたが、永年のいきさつ、組合や同業者との関係など色々な問題が絡み合っているので、途中から入った私では理解に時間がかかる事や、ウエダ本社内では他にも多くの深刻な問題を抱えていましたので、他の問題は全て自分がやるから、兄には物流問題だけに専念し、ここから脱退する交渉だけをやってもらうよう頼みました。

私が同時に取り掛からないといけなかった問題は、物流問題を除いても大赤字の本業の建て直しと、単独では卸をやっていけない事から同業者との合併の模索、意味をなしていないグループの再構築と、それら思い切ったリストラを断行するに当たり、理解してもらえる銀行への切り替えと関係構築など、大雑把に言えばこんなところでした。

どの問題も一つだけに専念しても、大変時間の掛かる難問でしたが、何のノウハウも持っていない私がそれらを一気に行なっていかなくてはならなかったのです。

来年からは、それらの問題について長くなるのですが、一つの記録として書いていきたいと思います。
京都流には直接関係ないですが、ウエダの社員や関係者、経営を勉強しておられる方には、実録として役に立つ事もあると思いますので、辛抱強く読んでみて下さい。

来年につづく。

2007年12月29日土曜日

ウエダ本社も営業終了しました。

本日ウエダ本社も今年の営業終了しました。

特にこの1ヶ月強ほどはホントに忙しく、ずっとON状態で走っていた感じです。

この間、ワークライフバランスの関係から、父親が育児に参加する事に理解のある企業(OK企業)という事で、京都市の600数十社の中から5社が表彰され、ウエダ本社がその内の1社に選ばれるという、思わぬ出来事もありました。

これは弊社がオリジナルで考えて導入した、有給休暇を1時間単位で取得できるという制度が大変面白いという評価を受けたためです。


先日、のぶのブログにありました、小学校でのゴーヤの料理の様子は、京都市教育委員会で行なわれているゴーヤでの壁面緑化と、CO2削減などそれを行う意味や、植物(ゴーヤ)の育て方としてのコンテンツとして作成したものに、折角だから、調理して食べるところまで入れようとの事で、教育委員会さんや梅小路小学校さん、それに
ゴーヤの種から育てるところの映像を撮ってもらい、又この12月に調理するに当たり、沖縄からゴーヤを取り寄せて頂いた、京都青果合同さんなどの多大な協力により、環境問題から、植物の育て方、食育までを網羅した、意義のあるコンテンツを
作っている様子です。

こんな事も色々やりながら、夜は夜で日曜日以外では、殆ど毎晩予定があるという状態でしたので、最後までバタバタのハードな日々でした。
年末気分はまだ全くなく、プライベートの年賀状も明日からですが、休みの間は少しゆっくりしようと思います。

ブログだけは同じペースでは書きますが・・・

とりあえず、今日は仕事納めという事で・・・皆さん一年間お疲れ様でした!

2007年12月23日日曜日

ウエダ再興記⑰~ グループ経営とウエダ本社

非常勤で少しでも役に立てばという気持ちで入ったのですが、計算や話が違う事ばかりでした。

まず、私が入ってからすぐ、この人が居れば助かるとあてにしていた経営工学の博士である中国人が、実は辞めたいと言って来ました。
中国に居る一人娘さんが又優秀で、ピアノで引っ張りが来て、アメリカかカナダの大学に国の特待生で行く事になり、娘さんについて行きたいとの事でした。
そんな事を止めるわけにも行かず、いきなりブレーンを無くしたというか、大変な状況の中、一人残された感じでした。

何とか立て直して欲しいと言っていた人たちは、私が入ってからは一刻も早く血を止めないと総倒れになるので、本社を”名誉ある撤退をさせて欲しい”と早く言えば廃業させて欲しいとの事でした。
ここが一番残念なところでした。

この頃は卸(問屋)不要論という事が叫ばれ、どこも卸が苦しんでいる中、”ウエダさんは本体が卸でも時代を見据えて早くから直販(我々の業界の直販は、ユーザー企業に売る事)をする子会社を作り、グループで見事に展開されている”と世間からは見られていたにも関わらず、実体はこの様に全くグループとして連携されていなかったのです。

人から必ず聞かれる事で、”ウエダなのにどうして岡村なのですか?”という事ともう一点は、”本社までが会社名ですか?”という事です。
この本社までが会社名である理由に実は衰退の変遷をみる事ができます。

1984年に4つの子会社をつくり、それらを管理する今でいうホールディング会社として、ウエダ本社は出来ました。
ウエダ本社の役割は子会社全ての資金面、経理面の管理業務で、それらの代行料と子会社から受け取るウエダという名の商標使用料が収入となっており、ウエダ本社は放っておいてもきっちり利益の出る会社になっていました。
この仕組みを作ったのはタタキ上げの創業者の祖父であり、祖父は全ての子会社の役員に一切入っていなかったのですが、私の推測ではこれは祖父なりの計算であったと思います。
祖父は創業者ですから、自分が役員で居ようが居まいが、統治には殆ど関係なく、それよりは、子会社を全て自分の身内でもない社員に任したという事の効果を考えていたのだと思います。
ところが、祖父が亡くなり、父の時代になると、その関係も微妙なものになり、まして子会社が黒字で赤字の本体を支えているという構図になると、色々問題が出て、父達が役員で入っていなかったことで、次第にコントロールが利かなくなっていったのだと思います。


私は自分で創業して、いずれこういうホールディング会社が統治したグループ経営というものを作りたいと思っておりましたので、少しは勉強していましたが、ウエダに入って昔の仕組みを見た際に、自分が考えていた理想形をかなり前に作っていた祖父に感心しました。
何せこの頃はホールディング会社というものは認められていなかったのですから。
これがいつの時代になっても、グループで連携してグループの何処かが引っ張るという関係にしていっていれば、ウエダは安泰であったかもしれません。

そんな体制でしたが、その頃には既に本体の文具卸は赤字であったのですが、多分それでは対外的にも示しがつかないから、管理業務や商標料で潤っている本社に入れ込んだというのが、現在ウエダ本社という名前で残っている理由です。
しかし、この事で赤字が隠れてしまい、赤字なのに危機感が無いという状態がその後ずっと続いていたのでした。

2007年12月19日水曜日

門川大作氏 京都市長選に出馬!

京都市長選に門川大作氏が立候補されました。

京都流でも御馴染みの今では”前”になってしまった京都市教育長です。
京都流では勿論、政治思想を論議するものではありません。

ただ、あくまで文化に対しても伝統に対しても、京都やそして日本に対しても正しいと思う事を発信していく場であろうと考えています。
それが、京都流サイトでは広告なども含め一切の収益を得ず運営している理由です。

その前提をご理解頂きながら、京都流の運営責任者の私としては門川氏を支持したいと思っています。
それは、ここでも何度か書いた事がありますが、格好や口先だけの人ではないどころか、TOP自ら率先して動いていかれる姿勢、あんな事ができる人はなかなかおられないからです。

私は常々、”文句を言うなら自分でやれ、自分でやれないなら人がやる事に参考意見は言っても文句を言う権利はない”と言っていますし、全てにおいてそれが私の正しいかどうかの判断、人を信用するかどうかの判断の基準です。

そういう意味では、門川氏は民間企業のTOPでもこれ程、思い切った事をできないと思うくらい強力なリーダーシップで京都市の教育を向上させて来られた方で、私の基準からして最も信頼のおける方だと思います。

民主党は独自で推薦したかった様ですし、国政のねじれから、自民党は他の候補も考えていたりもしましたが、単なる、相乗りではなく、門川氏のやって来られた事を知っていれば、そうなってしまうと思います。

門川氏は京都流もよく見て頂いていましたし、その方が市長になられたら、京都流の真に京都を愛する皆様方の声が、市長に直接届くことになるという事になりますから、皆さんもこれから益々、心して京都流に参加して下さいね!

2007年12月16日日曜日

ウエダ再興記⑯~ 京都にウエダあり

ウエダ本社は昭和13年5月私の母方の祖父である上田安則が、資本金5万円を元手に自転車5台を買い文具卸としてスタートした会社です。

この祖父は派手な事新しい事が好きで、今でいうキャンペーンガールをトラックの荷台に乗せて宣伝したり、飛行機からチラシを撒いたりという、昔では考えられないド派手な事をやっていたようです。

文具や事務機という業種の代理店というのは通常、地域代理店制ですので、ウエダは京都、滋賀の代理店であり、他の地区には同じメーカーの代理店がいます。
それら全国の代理店を集め、メーカーに向けて発言力を高めていこうと、いくつかの団体も祖父の呼びかけで作られました。
又、今でも事務機のウエダという看板を掲げていますが、昭和三十年代に事務機というものを業界に先駆けて持ち込んだ様に、常に新しい事目立つ事を考えていた様です。

私がウエダに入ってから各トップの方々にご挨拶に伺った際、"ウエダは昔全国区だった”という事を何人かの方に言われました。
私はほんの二、三年前にこれが本当だと気づいたのですが、これは決してお世辞ではなく、昭和三十年代後半から五十年代頃までは"京都にウエダあり”という感じで本当に輝いていた様でした。
余談ですが、ウエダで代表になってから、ある時シャープさんの会合に行った際、並居る大手量販店トップの方々にひけを取らないというかむしろ、こちらの方が丁重な扱いを受けた事に驚きました。
これは、シャープさんやカシオさんは計算機が切欠となって飛躍していかれたのですが、それを最初に取り上げていたのがウエダを含む、二、三社であり、その事を当時のシャープさんの上層部は分かっておられたので、現在いくら売上が多い量販店より、黎明期から商品を取り上げた会社を重要視してくれていたのです。

しかし、そんな派手好きで他人には気前の良い祖父は、私達身内からすると、全く面白みのない、ある意味冷たい人でした。
仕事の為には、身内でも平気で利用するという人で、母が亡くなる直前に言っていた話では、ずっと私の父との結婚を反対していた祖父がウエダで事務機を導入しようと思った途端、手のひらを返した様に、機械に明るかった父との結婚を勧め、父をウエダに引き入れたぐらいです。
私も普通の”おじいちゃん”などという感覚は全くなく、元旦にだけ会ってお年玉をもらうだけの人でした。
しかもお年玉を孫に渡した瞬間から、父に仕事の話をする様な、愛想も何もない人でした。
そんな人ですから、一見派手好きで外では派手にお金もかけますが、ただ単に使っているのではなく、凄く計算されていたのだと思います。

私も今まで、叩き上げの創業者を何人か見てきましたが、こういう人達は皆お金の使い方が大変うまく、生き金というか、使ったお金を絶対に死に金にしないという感覚をお持ちだと感じます。

この創業者上田安則が亡くなったのは、私が瀧定入社した年でしたので、仕事の話というものをした事がなかったのですが、特に会社を経営する様になってからは、あの愛想もくそもなかった”おじいさん”と仕事の話がしたかったなと思いました。

そんな叩き上げ創業者の祖父から”二代目”の私の父に継がれていくのですが、二代目はお金の事、数字の事が備わっていないケースが多い事に加え、見栄、体裁に拘る父の時代になっていくと、全国区のウエダも変調をきたしていったのだと思います。
そして先代が亡くなり父の時代になってから、数年間殆ど新たな手を打っていなかったのではないかとウエダに入ってから感じました。

しかしただ一つ行っていた大きな事が、私がウエダに入る事につながり、その後ずっと苦しむ事になる大失政でした。

2007年12月12日水曜日

皆様本当にありがとうございます!

昨日から出張に出ており、しかも、ネットに接続できませんでしたので、先程帰宅し、サイトを見て皆様の活発なコメントを見て驚きました。

そして、これだけ京都を愛されている皆さんが、京都流を通じて知り合って頂き、その事で盛り上がって頂いていて本当に嬉しく思います。

全てのブログ、お一人お一人にコメントを入れるべき所ですが、皆様へのお礼として
この場で書かせて頂きます。

ふうりんさんや雅撫子さん、勿体無いお言葉頂き恐縮です。

私は、他の事でもそうですが、場だけ作って、人だけ集めて、そうすれば何か始まるかもしれない、何か問題提起もできるかもしれないと、枠作りだけしているだけで、
大した事は何もできていません。
実際は、のぶを始め、スタッフ達が他にも仕事を持ちながらやってくれているお陰
です。

又何よりも、他にたくさんの京都サイトもありながら、低予算で編集なども素人で行なっている京都流を、マニアックにも愛して頂いている皆様方が、支えて頂いているお陰です。

ろぷさん、毎年の設営有難うございます。

hickeyさん、hickeyさんを見つけて輪ができるなんて、凄い話ですね。

busさん mittsuさん 橘さん、いつも色々サポートして頂き有難うございます。

yoojiさん 楓さん きょうこさん kyoppeさん  そして最近メインのlaviemarieさんも有難うございました。

受験者数は減りましたが、これだけ熱い方々がおられるという事を、商工会議所の方々は再度認識して頂いて、今回の受験者減をバネに頑張って頂きたいと思いますし、我々も、しっかり伝えていきたいと思います。

皆様、お好きな事とは言え、試験が終ってお疲れの事と思いますので、どうかご自愛下さいませ。

2007年12月9日日曜日

ウエダ再興記⑮~ ウエダ本社取締役就任

ウエダの方では、子会社の代表とその後何度か話をしました。

"ウエダに入って本社を立て直してもらえませんか?”切り離して欲しいと言っていたのに、何で?と思いながら、私は”そんな立て直すなんて大仕事は無理だし、そんな気持ちでいてくれるなら、それこそ私は親父を説得して、あなたに全権依頼するから、あなたがやって下さい。
それがウエダにとっても一番良い”とその子会社代表に何度も言いました。

しかし、その人はあくまで自分は子会社しか見る事ができないと固辞しました。
私は大変悩みましたが、やはり身内の会社ではあるので、ここまでの状況になってそれでも知らないという事はできず、とりあえず、週一日だけ非常勤の取締役としてウエダに行くという事になりました。
1999年3月小さい時からウエダには入らないと言っていた私が初めてウエダに関わる事になりました。

しかしだいたいこれが変な話なのです。
私は身内の誰からも頼まれたのではありません。
当時のウエダ本社は、代表取締役会長が父親、代表取締役社長が兄という体制であったのですが、父親は会長に退き社長に任すと言いつつ、肝心な所で決定をひっくり返すという世間でもよくあるパターンでその数年経過していました。
社長の兄は、私と違って温厚で、父親の言う事に従おうとするタイプでした。
ですので、通常は社長である兄が運営していますが、肝心な所で父親が裏返し、何も進まないという状態が続いていたようで、成績も悪化の一途で改革が打てないので、子会社の代表達が本社のアドバイザーとして権限を持っていました。
しかしこのアドバイザー達も、中に入り込んで火の粉を被ってでもという事でやっているのではなく、口だけの介入でしたので、誰も責任を持って物事に当たらないという硬直状態が続いていた様でした。

私は、このアドバイザー達に”立て直して欲しい”という要請をされ、その後どう決定されたのか、給料は10万円で良いですか?いつから来てもらえますか?という話も全て、子会社代表がして来て、最後まで父親始め、身内から入ってくれと頼まれたことはありませんでした。

その時点で自分の身内に対しても、色々思うところはありましたが、週一日でもやる限りは成果は出そうと思ってそれ程、気にはしませんでした。

私は瀧定で鍛えてもらったお陰で、仕事に対してはプロ意識というものを持っているつもりです。
感情がどうであれ、与えられた仕事、役割に対しては、それ以上の成果を出すという事を当たり前と常に考えており、この時もそういう思いでありました。

しかし、いざ入ってみると、自分の考えが甘かったのに気づきました。
会社の実体は数年間ずっと赤字、社内はやる気のない沈滞ムードが蔓延、経理から出てくる毎月の試算表は翌月の25日くらいに出てきて、しかも素人の私が見て、簡単に検算しても分かる間違いが平気である様な状態でした。

外からみるとウエダは子会社もあって、ウエダグループとしてやっていますが、いがみ合っているくらいの感覚で、全く連携が取れていない。
これはとんでもない所に足を踏み入れてしまったな・・これが正直な感想でした。

2007年12月8日土曜日

いよいよですね♪

明日はついにですね。

皆さん頑張って下さい!

あれ、他人事?と思われた方、鋭いですねぇ~。
私はサポーターとして応援しております(笑)

先日、格闘家の佐竹さんと食事した際、佐竹さんから武士と忍者の違いを教えてもらいました。
以前もここで話しましたが、佐竹さんは武士道精神を復活させないと駄目だとの思いから活動されていますが、武士と忍者の違いは、武士はその精神を重んじるのに対して、忍者は結果だけ上げれば良いということだそうです。

今武士道精神がなくなり、結果だけを残せば良いという忍者ばかりがはびこり、世の中がおかしくなっているという話でした。
武士は刀を大切にしますが、忍者は刀を踏み台に使って壁をよじ登っていくという様に、同じ刀を持って戦うにしても全く考え方、姿勢が違うわけです。

我々京都流は、何度も言いますが、決して京都検定受験用のサイトではありません。
京都を知り、興味を持ち、文化や伝統を知り、そこにある教えや残していかなくてはいけない意味合いなどを知り、伝え、残していこうとするものです。

ですから当然、忍者ではなく武士スタイルですから、試験の結果ではなく、受験される皆さん、楽しんで下さいね!

2007年12月6日木曜日

門川教育長 お元気そうで良かったです。

昨日、門川教育長にお会いして来ました。

少し落ち着きましたが、時の人であり、マスコミにも追いかけられておられたので、
心配しておりましたが、いつもと変わりないご様子で安心しました。

お忙しい中でも、先日私が書いた、精華大の牧野先生についてのブログも読んで頂いており、いつも教育長に会うと、あのお忙しい中でのご配慮に恐縮してしまいます。

表面上、単独指名をしたい民主党、先を越されて国政の絡みもあり、民主にすんなり乗れない自民党と、政治には面子があるのは分かっておりますが、誰の為の首長かという事を、各党は考え、大人の対応をして頂きたいと思います。

私の方は、いずれお話しますが、最近はある事に向けて大変忙しい日々を送っています。
その関係で教育長にもお会いしたのですが、その他にも京都のVIPな方々の所を駆け巡っております。

誤解無きように言っておきますが、決して選挙に出るのではありません。(笑)

2007年12月2日日曜日

ウエダ再興記⑭~ 身の回りの変化とIT系との接点

ウエダの流れとは別に私の方も色々な事がありました。

エムズカンパニー設立後丁度一年経った頃、阪神大震災がありました。
以前、阪神大震災被災記をこのブログで書きましたが、一人で独立して間なしでもあったので、事務所としていた自宅マンションも半壊となり、何も身動きの取れない神戸には居れず、京都に避難して仕事を続けてました。
その時にブログにも書きましたが、全然関係ない他府県の人々がボランティアで神戸に入っているのに、神戸で被災した自分が、仕事の為に京都に避難して、暖かい所に居てテレビを通して神戸を見ているという事に大変嫌悪感を感じました。
しかし独立して一年の私はこの時期に仕事ができなくなる事=会社を諦めなくてはならないという気がして神戸に残る決断はできませんでした。

その後、震災の前日に結納をしていた現在の家内とその年の秋に結婚し、三年後には長男が生まれました。
一人で何とか食べられるかどうかの時期に結婚し、子供ができると、当たり前ですが二人分、三人分の生活費を稼ぎ出さなくてはならず、独立という字の通り、独りでやっていくという事の大変さを充分に体験しました。
瀧定時代には”何事も自分のお金と思って判断する”という事を叩き込まれましたが
この時ほど、その意味を実感できた事はありませんでした。

lunaparkさんとはずっと貿易のパートナーで殆ど毎日やり取りをしていましたが、彼女がパリに移り住んでから、”私がパリでつるんでいる日本人女性のご主人の会社が、飛ぶ鳥を落とす勢いのある会社らしいよ”との事でした。
”K”という会社で、”ユードラ”というメールソフトの権利を取って凄いらしい。との事でした。
私の事を前職がIT系だと思っていて、ITリテラシーも高い様に思われている方もおられるのですが、実は今でもとても苦手で、特にこの頃は”ユードラというメールソフトどころか、メールソフトって何?というレベルでしたので、この話には全く関心を示しませんでした。”

ところがウエダが大変だとか、何とかしてくれと言う話が耳に入ってくる様になって来て、lunaparkさんに"そう言えば、前から言っていた人の会社一度紹介してくれる?”という事で紹介してもらう事になりました。

これがIT系との繋がりの初めで、ウエダとIT系を繋いでいく切欠になるのでした。