2007年10月30日火曜日

エリックさん in ノートルダム小学校

先週の金、土とエリックジェイコブセンさんのショーをノートルダム小学校で行ないました。(こちらをご覧下さい)

何故、私がそんな事を書くかというと、実は、ノートルダムさんにエリックショーを提案したのが私でしたので、二日間お手伝いをさせて頂いてきました。

ショーの後の本、CDの販売から、エリックさんの誘導なども行い、エリックさん、ノートルダムさんの両側から大変喜んで頂いたのですが、逆に私の方が大変勉強にもなり、パワーも頂いた時間でした。

プロ意識というものをエリックさんに密着させて頂いて大変勉強させて頂きました。

ショー前には、かなり集中して練習をされます。
多分、何回もやられている曲で慣れられていると思うのですが、それでも決して手を抜かれない所や、金曜夜に4人で食事に行ったのですが、その後も1人だけ明日に備えるからと、ホテルに帰られる所など、プロというのは、セルフコントロールもしっかりされるのだなと改めて感じました。

エリックさんのショーを見ている子供達や、その後サインなどを貰って喜んでいる子供達を見ていると、こちらもこういう場を提供できたという事が嬉しくなり、子供達からもパワーを貰えた時間でした。

2007年10月27日土曜日

ウエダ再興記⑨~ 開き直った瞬間

怒られていた時期は、ほんの二、三ヶ月だと思いますが、この時期は会社へ行くのが嫌でした。
毎日、今までやって来た事を否定され、それに対して説明をしても一切聞いてもらえませんでした。
ある時までは反論しましたが、ある時期からはそれも無駄だと思い、何を言われても一切反論しなくなりました。
会社から夜遅く帰ってからは、マンションのベランダで一人でよくボーっと考え事をしていました。

どう考えても納得いきません。しかし誰もわかってくれません。
ドンドン考える内に、自分のやって来た事、あれだけ一生懸命仕事して来た事が馬鹿馬鹿しくなり、もう辞めようかと思いました。

駄目社員になって二ヶ月位過ぎた頃か、ある晩ベランダで考えていて、明日にでも辞めると言おうと考えた瞬間、自分の考えが逆流し始めました。
このまま辞めたら、結局自分のやって来た事は、皆が言っている様に駄目であったと認めてしまう事になる。
自分は、あれでけ一生懸命にやって来たのに、これで辞めてしまうと負け犬で終ってしまう。
それこそ、悔しいのではないか?
そう思うと急に考えが変わり出し、よしそれじゃ一度徹底的に売りまくってやろう、そう思いました。
これだけの事なのですが、これが開き直った瞬間で、翌日直ぐに、課長(部長兼任)に、今までの動きを止めて、瀧定がメインとするターゲットの売り先に担当を変えてもらう様に頼みました。

それからは売る事に徹しました。と言っても、元々瀧定がメインとしている層(量販店)に向けて、その層向けに企画をした商品を売るわけですから、私にすれば、この方が全然簡単でした。
何せそれまでは、来て欲しくないと言う所に行って、そこに合う”センスの良い商品”などないので、そこに合わせる為の商品を自ら作って売っていかなくてはいけないのですから、それまでの方がどれだけキツイ事をやっていたか分かりません。

そんな調子で売りに回ると今までと比べてホントに簡単に売れ、翌年には年間優秀販売賞をもらう様になりました。
そうなると今度は、”岡村は変わった”とか”よく頑張っている”と言われる様になりました。
その時点になって、あの頃私は、こういう様に考え、こういう事をやっていたのだと言うと、他人は初めて、なるほど、そう頑張っていたのかと聞いてくれる様になりました。

私はこの時期の経験で、他人というのはこんなものなんだという事を痛感し、これ以降仕事に対して、他人に対して、どんな事でも全て自己責任で考えるという事ができる様になりました。
又、この売れないという経験をせず、初めから瀧定のメイン層を持ち、よく売れるという経験を最初からしていたら、私の性格からすると、大いに勘違いをしていたと思いますが、この経験があったお陰で、上辺の事で褒められても、有頂天にはならず、会社の力や看板など、そういう背景の要因で、物の売れ方も違うという仕組みを理解する事ができました。

よく特に大企業などにおられて大変よくやっておられた人が、独立して看板が外れると、その時初めて自分の力で売れていたのではないという事に気づかれたりしますが、私の場合は、こういう仕組みを会社の在籍中に勉強できたのは大変大きな事だったと思います。

ニ、三ヶ月の駄目社員を脱却し、又認めてもらえる存在になりましたが、同時に私の中ではこれで、”やっぱり自分のやっていた事は間違いではなかった”という、自分の中でケジメはつけられたので、逆にもう、いつでも辞められると思うようになりました。

2007年10月24日水曜日

文化情報部会

私は京都商工会議所で文化情報部会という所に入っております。

今、私が行なっていることからすると部会名はバッチリなのですが、今日
その部会名そのものの、視察がありました。

朝から京阪奈地区にある、NTTコミュニケーション科学基礎研究所という施設で、
人間についての最先端の研究についてお話を伺いました。
これは、大変興味深いもので、人間の情報処理には、色々な錯覚があったり
して、人間というものはホントに面白いものだなと思いました。

その後、奈良の春日大社へ行きました。



ここの境内には三千基の灯篭があるそうです。
新しいものと年数が経った灯篭が混ざって寄進されています。



本殿で正式参拝をした後、


(本殿から)

貴賓室で昼食に中旬の献(ちゅうじゅんのこん)を頂いて来ました。



これは、神様のお召し上がりになった御供には、尊い御神気が篭められていて、
それらのお下がりを頂戴することによって神様のご加護に預かるというものが
響膳と言われるそうで、宮中と春日大社でのみ行なわれる旬祭の際に頂戴した
響膳を中旬の献というそうです。

今日は京都流ではなく、奈良流になってしまいました。

2007年10月20日土曜日

ウエダ再興記⑧~初めての挫折

私は元来、人の好き嫌いもハッキリしていましたし、正しいと思う事は相手が誰であれ、言っていくタイプでした。
社会人になってから、これではマズイなと思った事もありましたが、途中からは開き直って、性格を直すよりも、それを生かした方が良いと思い、幾ら気に入らないと思われても、それを常に上回る位やろう、誰にも文句を言えない位にやれば良いのだと考える様になりました。

そんな考えで意見をドンドン言い、それをずっと認めてももらってましたので、私の事を面白くないと思っていた人は多かったと思います。
それをある時期から、一気に感じる様になりました。

私があるシーズンのヨーロッパ出張から帰って来た月曜日、その日は出社した段階から、何か周りの雰囲気も違っていました。
しばらくすると、その出張中に、私の所属している課が二つに分かれる事になったのを知りました。
9年連続TOPの課で、その時点で営業員9人で70億円を売り上げる課になっていましたので、課別独立採算で競わせる瀧定の特徴では、これを二つに分割し、又競わせる形にするのです。
9人で70億と言っても、その間の私は、数字は目を瞑るから・・と託されて新規の動きを行なっていましたので、確か年間で3億強しか売り上げていませんでした。

最大の課に居ましたので、そういう動きをする余裕があったのですが、二つに分割され、そんな余裕など無い状態になると、岡村のやっている事はどうなっているのだ、全然数字が上ってないじゃないかと、私が出張している間になっていた様です。

それで出社した際に、周りの雰囲気が何か腫れ物に触るような感じであったり、今まで先輩でありながら、私に気を使っていた様な人が、何か、とげとげしい態度で接して来たりしたわけです。
それ以降、私の境遇は一変しました。
それまでは会社のホープであったのが、全く売っていない、ダメ社員の様な扱いを受けましたし、上司に認められていた私に、今まで何も言えなかった人達から、面白い程、手のひらを返した様に攻撃を受けました。

勿論、社長にも言われてやってきた展開であり、必死にやって来た私は、納得いくわけもなく、上層部にも今までの経緯、どれだけ一生懸命にやってきたかなどを何度も何度も説明しました。
しかし、誰一人、聞く耳を持ってくれませんでした。
あれだけ一生懸命仕事をして来て、梯子を外された、この時の悔しさは説明しようのないものでした。
しかし、今から思うと、こういう経験もなければ、いずれ経験する事になる、ウエダに入ってからの悔しさにはうまく対処できていなかったかも知れません。

このヨーロッパ出張というのも私が直訴して、一部反対もある中、一般の営業員としては、初めて行かせてもらった事からスタートし、毎年春秋にパリとミラノで開かれる展示会にいくものでした。
それだけに特に最初などは、成果を出さないと何を言われるか分からないとの思いで、安ホテルに泊まりながらミラノ、パリという地でも必死に働いていておりました。
今では多分、毎年大人数で豪華な出張となっていると思いますが、この頃の私はこんな感じで、今まで無かった会社の流れを作る為に、最も働いておりました。

しかし、突然梯子を外され、初めて挫折というものも味わったのでした。

2007年10月18日木曜日

Do you Kyoto ?

この意味をご存知でしたでしょうか?
ご存知の方は、かなり環境問題の意識が高い方か、京都のニュースに詳しい方か、ディカププリオのファンの方ではないかと思います。

私は知りませんでした。
これは昨日、門川教育長の所にお邪魔した際、教えて頂いたのですが、”Kyoto”してますか?
つまり、環境に良いことしてますか?という事であり、ディカプリオ氏が言って広まったという事です。
又、8月の終りにドイツのメルケル首相が京都での講演の中でも使われたそうで、環境に取り組んでいる人々の間では知られた言葉になっているそうです。

ところが、教育長も仰っていましたが、なぜもっと肝心の日本人、京都人にこの事を知らしめないのだろう、マスコミも取り上げないのかと思います。

この言葉、大変良いと思いますし、私も広めて行きたいと思います。
Kyotoしてましすか?これは議定書から関連付けられ、発想された言葉ですが、京都的なおもてなしや心配りができる人や、その事について、京都流してますか?
Do you Kyotostyle?という事も併せて提唱していきたいと思いますが、どうでしょうか?

2007年10月14日日曜日

京都文化企画室 秋の園遊会

今日は、京都流ブログにもご参加頂いております、西川充さんが理事長を務められている京都文化企画室主催の秋の園遊会に参加させて頂きました。

京都文化企画室は、西川流師範の西川充さんが、京文化を広く一般の方にも知ってもらう、親しんでもらう事を目的に立ち上げられたNPO法人で、こちらも京都流で持つ問題意識に対して、色々な活動を実践されているグループです。

今日行なわれたイベントも、殆ど普段は入る事ができない南禅寺の大寧軒



で、園遊会というものでした。

立礼でお茶を頂き



その後、庭で瓢亭さんのお弁当を頂きました。



西川さんの活動は、何だかんだ言っても、入りづらい、分かりづらい京文化を、ご自身は色々な分野に造詣が深いのに、他の方々へはホントに入りやすく、とっつき易くされているところが素晴らしいと思います。

私は、その主旨を過大解釈し過ぎたか、やはり無作法者か、今日はカジュアルな感じで行き過ぎて、ちょっとミスったかなとは思いましたが、それでも、心良く受け入れて頂ける、イケズではない会ですし、真に京都を好きな京都流の方々にとっては、
大変お得!な会だと思いますので、ご興味ある方は、入会されてみてはどうでしょうか?

2007年10月13日土曜日

ウエダ再興記⑦~遮二無二働く

その頃は特に遮二無二働いていたと思います。

通常でも夜の10時には機械警備になるので、絶対に退出しないといけない様になっていましたが、仕事が終らない為、朝から夜10時まで悲壮感漂う形相で仕事をしていましたし、入社3年目頃に土曜日も休みになりましたが、瀧定を辞めると決めるまでは殆ど土曜日も休んだ事はありませんでした。
それに加えこの頃は、特に全く相手にしてくれないどころか、来てくれるなというアパレルを開拓しないといけませんでしたので、何とか話を聞いてもらう為に、日曜日は、その開拓したいアパレルの店の観察に費やしていました。

瀧定の厳しさを実感した出来事で、ウエダにも関係する話をしますと、丁度私が入社一年目にウエダの創業者である私の祖父が亡くなったのですが、その日は土曜日で3時迄の営業でした。
祖父が亡くなって通夜にいくのに7時迄仕事し、部長にすいませんが祖父が亡くなったので、お先に失礼しますと大変恐縮して帰りました。
会社を出た後、祖父が亡くなって帰るのに、しかも3時迄営業で7時に帰るのに、何故こんなに恐縮して帰らないといけないんだと思いましたが、それでも悪いと思うくらい、皆思い切り仕事をしていたのです。

ですので、他の会社に出入りしたり、今までウエダに来てからでも、忙しいという事を聞いたり、同じ10時までやらないと終らないと言っていたりしても、表情を見れば直ぐ分かるというか、瀧定では、皆何かに追われて仕事をしている様に切羽詰って10時迄働き、休日も働いていましたので、全然甘いな~と思ってしまいます。
これは社員に対して厳しくなってしまうマイナス要因かもしれませんが・・

課別独立採算であるので、どこの課も主には東京担当、名古屋担当、大阪神戸担当に分かれているのですが、東京や名古屋の担当は毎週火曜日の夜から出張に出て、金曜日の夜に帰ってくるという生活でした。
私はその商社の中で生地(テキスタイル)のレディース部隊におりましたので、生地サンプルを毎週持って販売しに廻っていました。
今の様にキャリーバックはありませんでしたから、15kgもある荷物を持ち、毎週数十人で新幹線で出張に行っていました。
毎週火曜日の夜の最終近くの新幹線は15kg程入ったカバンが車両の間に数十個も置かれ、東京に着けば夜中の12時過ぎに重い荷物を持った軍団が割と近距離でタクシーに乗るので、タクシーにも嫌われ、かなり有名な団体だったと思います。

毎週出張と言っても厳しい、泥臭い会社ですから、ホテルに泊まれるわけでもなく、東京の場合は浜町の明治座前にある連絡所という自社ビルで皆寝泊りします。
6帖の部屋に3人、他の課のおじさん方と布団を並べて寝泊りするのです。
営業も車などは一台もなく、交通機関かもしくは自転車、それも豆腐屋さん(と言っても若い人は分からないでしょうが)の様な黒い頑丈な自転車が各課で2台程割り当てられているだけ、表参道でもその黒い頑丈な自転車で疾走するわけです。

そんな調子で毎週金曜まで働き、金曜日の夜に新幹線で帰ってくるという生活なのですが、この頃は殆ど帰りも最終9時(東京発)の新幹線で、何度か階段を重い荷物も持って駆け上がったら、無情にも最終の新幹線が発車して行った事もありました。

それだけ一生懸命働いていた私ですが、ある時どん底に落とされてしまいました。
この経験が実際のビジネスにおいての考え方に大きく影響をしていると思いますが、
この話は次回にさせて頂きます。

2007年10月10日水曜日

宇治人形-知られざる茶の木人形の世界-

先日も私のブログで、中・高の同窓ですという人がおられて驚きましたが、以前も私の祖父にあたる岡村楽山と茶の木人形について書いていました所、それを研究されておられる方から連絡を頂いたという、ネットの威力を思い知らされる出来事がありました。

その方は宝鏡寺の学芸員で花園大学で非常勤講師を務められている田中正流さんという方ですが、その方の協力で今月22日~12月15日まで、花園大学歴史博物館第二展示室において、上記の展示会が開催されます。(詳しくは<a href="#">こちら</a>)

これは宇治の方でも、もうご存知の方が少なくなった茶の木人形を、今集めて残していかないと記憶からも途絶えてしまうという事から開催されるもので、その茶の木人形の中で、岡村楽山はかなり重要な役割を担った様です。

私にとって本当に有り難い話ですが、この楽山という祖父は私の親父が若い時に亡くなった為、会った事もなく、親父からも殆ど聞いた事がなかったのですが、本来なら全く途絶えてしまう筈であった情報を、研究していて下さる方がおられ、私が全く知らない事を教えて頂けるのですから、これも本当に不思議な感じがします。

全く、ウエダにも、京都にも、伝統産業にも無縁で過ごして来た私が、ウエダに来て京都流というサイトを立ち上げ、殆ど父親からも聞かされた事がなかった祖父の話を、両親が亡くなってから、自分が立ち上げたサイトを通して知る事になったという、本当にすごい話です。

もしお時間あられる方は、一度見てみてください。
この祖父である岡村楽山がいなければ私も生まれておらず、という事は京都流も出来てなかったわけですから、そういう意味では京都流のルーツがそこにあるかもしれません。

2007年10月8日月曜日

DREAM TOY'S チャリティーコンサート

6日土曜日に、以前京都流でもご紹介した、伊藤タカ子さんのコンサートに行ってきました。
これは、伊藤さんの活動である、白血病や他の血液難病に苦しむ方々を支援するというNPO法人DREAM TOY’Sの1周年記念も兼ねた、チャリティーコンサートでした。

この活動は約9年前から、伊藤さんが地道に積み上げて来られたとの事ですが、このNPOの発起人には、裏千家大宗匠の千玄室さんや、門川教育長、堀場会長(正式には最高顧問ですが、私はそのまま会長とお呼びしているので)なども応援される大きなうねりになっています。

これなどは本当に、真剣に動けば、どんな事、人だって動かせるんだという良い証明だと思います。
私は伊藤さんの活動をほんの少し前まで知りませんでしたし、伊藤さんとはまだ殆どじっくり話したことはありません。
しかし、以前もブログ(こちらでご覧下さい)で書いたような経緯で、何か昔からこの活動に関わっていたような感じがしています。

これだけ真剣な思いで、これだけの人を動かし、これだけの動きにして行かれた伊藤さんには敬服致します。
又、堀場会長は全然知らない伊藤さんの熱意を感じ取られ、お忙しい中、話を聞く機会を作られ、この活動が有意義だという事から、門川教育長始め、多分行政関係にも働きかけをされたのだと思います。

私などの立場でも、最近、色々頼まれごとをされます。
頼む側は得てして、良い主旨なんだし、金額的にも少額だし、これ位は応じてくれても良いでしょう?という位の気持ちを持たれて来られます。(私も頼む側になるときはそう思いますから)
ところが頼まれる側からすると、そういう話をたくさん持ち込まれており、一つ一つへの協力は時間的にも、金額的にも大した事がなくても、全部に対応していると大変な事になるし、こちらを受けて、あちらを断るというわけにもいかないので、実はかなり大変なのです。
ましてや、堀場会長の場合など、国レベルの事から、たくさんの役職を担っておられますので、色々な事があると思うのですが、そんな中でも、まず、聞いてあげようという姿勢と、良い事については、自らが動いて協力されているという事に、やはり人間の器が違うなと、大変感服致しました。
堀場会長は私も本当にお世話になった、大尊敬の、大好きな方ですが、その堀場会長が、いつも京都流でその凄さを紹介している、門川教育長を誘われたとの事で、他の地域の事は知りませんが、こういう素晴らしいTOPの方々がたくさんおられる京都は、大変恵まれた地域だと改めて感じました。

肝心のコンサートも大変良かったです。
シャンソンというものは私は初めてでしたが、なかなかしっとりと良い感じでしたし、ゲスト出演された黄金井脩というアーティストが又大変素晴らしく、コンサートとしても充実した中身であったと思いました。

皆さんも伊藤さんとDREAM TOT’Sの今後の活動を応援してあげて下さい。
京都の事でもそうですが、人に知らせるというだけでも、大きな役割だと思いますから。

2007年10月6日土曜日

ウエダ再興記⑥~瀧定入社

大学卒業後ウエダに入ることを考えてもいなかった私は、瀧定という繊維商社に入社しました。

瀧定という会社は繊維関係の方であればまずご存知である、繊維専門では最大手の商社です。
しかし誰にでも知ってもらっていますが、繊維関係の方に元瀧定ですと言うのは、良く思われるか、悪く思われるか極端ですので、難しい面があります。
何故、評価が両極か、それは良く言えば、大変厳しい会社であり、悪く言えば、"えげつない"(関西以外の方分かりますかね?)会社だからです。
ただ言えるのは、商売を覚えるという事については、私にとって大変良かったと思いますし、ここでの経験がなければ今とても社長なんてできていないのではないかと思います。
当時から、いくつかの商社で、何故瀧定は儲かるのか?という事について、プロジェクトを組んで研究していた事もありますが、いくら机上で研究しても、あの中で育った人間にしか、本質は分からないと思います。

この瀧定の特徴の一つは課別独立採算というものですが、私の入社当時、確か売上は1900億円弱だったと思いますが、それは約80程の課がそれぞれ一つの会社の様に運営されていて、しかも社内の隣の課がライバルという関係で競っていました。

私は自分でもずっとラッキーな人間だと思っていますが、就職自体この瀧定が第一志望だった上、配属も、この競い合っている80程ある課の中で9年連続全社1位の課に配属されました。
瀧定という会社は同族会社ですので、一族で運営されているのですが、私の配属された課長(現在は副社長)はこれだけの成績を納めている人でしたので、社内では数少ないオーナーにものが言える人でした。

私が瀧定で良かったと思う点は、学閥など何もない完全実力主義であり、何もやらない人は置いていかれるが、やる人間は引き上げていく出る杭は伸ばす的な会社であったことです。
そんな会社でしたので、上司へのお世辞なんてとんでもない、相手が誰であれ、自分が正しいと思えばハッキリ言う性格の私にはピッタリで、新人のうちからドンドン新しい事をやらせてもらいました。

当時はバブル期に向かっていく頃で世の中では高級物しか売れない状況になっており、量販店向けに展開してきていた瀧定では苦戦をしだしており、そこに偉そうに、”こうすべきだ”と進言していた私が、高級ゾーンでアンチ瀧定的なアパレルの開拓役に任ぜられました。

これは約1300人程社員がいる中、当時の社長にも認めて頂いていた動きで、数字に大変厳しい会社の中で、特例も特例で個人の数字は目を瞑るから新規開拓をやってくれと託されたもので、私は意気揚々と仕事に取り組みました。

2007年10月3日水曜日

伝統文化プロデュース連 と 無心庵

先日、老松さんの大原にある茶室”<a href="#">無心庵</a>”に行ってきました。

これは桜橘庵でお会いした濱崎さんの活動と、それを応援されている老松の太田さんにお話を伺う為でしたが、まず、老松さんが独自で、大原の三千院近くにこれだけの立派なお茶室を兼ね備えたゲストハウスをお持ちであるという事に感服致しました。

街中の喧騒や、会社内での色々な”悩み”も忘れ、約2時間半、太田さんと濱崎さんに連の活動についてお話を聞かせて頂きました。

話を聞いて正に又”感服”という言葉がぴったりで、京都の、日本の伝統文化に対する真摯な取り組み、しかも一つでも、どれだけのお金と時間とクリアしていかなければならないハードルがあるのだろうと想像する程、大変そうなプロジェクトを、いくつも手掛けられ、それを又驚く事に、決してメセナ的に慈善事業で終らせていない所が、”感服”としか言い様がなかったのと共に、ちょっと私にしては珍しく自信をなくしてしまいました。
(活動の一端はこちらでご覧下さい。)

今まで、伝統文化や産業について、知らないのを良い事に、それを生かして、色々出入りして行ったり、言って行ったりする事が自分の役割であり、そんな風に客観的に見れて動いていかないと、京都は動かせられないでしょ?という事を思ってやって来てましたが、この様な立派なお茶室を持たれ、しかも伝統文化の本丸におられる方々が、決して上から物を見た感覚ではなく、伝統文化に対して、真摯に残していく事、広めていく事を行なわれていることに、ある種、気恥ずかしさと、私などが軽々しく論じていて良いのかという怖さも感じてしまいました。

どんな事でもそうですが、知らないと偉そうな事を言ってられるのが、レベルが上ってくると、その事をやっている人の凄さやレベルを感じる事ができて、物が言えなくなってしまう様になりますが、そういう意味では、私の文化度も底辺から少しレベルアップしたのかもしれません。(と、又直ぐにポジティブに考えますが・笑)

あまりにも色々あり過ぎて、連の活動とどうリンクしていけば良いのかは、今後又相談させて頂いて検討していこうと思いますが、それも含めて、伝統文化や産業に対する自分の立ち位置を再度しっかり考えていきたいと思いました。