2007年1月31日水曜日

あと二回にします・・阪神大震災 被災記⑨

もう月も変わるし、そろそろ皆さんの合格記や、再チャレンジ決断記が出てくると思いますので、意外と私の周りでは好評頂いておりました、被災記もあと2回にしようと思います。

勿論、これだけでは言い尽くせない、又簡単に言い尽くしてはいけない事だと思いますが、他の話題もあるので、一旦終結致します。

マンションに着いて、近所でおられる方々に、持って来た物で、必要とされる物を選んでもらって配りました。
その後、地震の翌日に殆ど何も持たずに京都へ避難していましたので、掃除をしてから、仕事の物等、必要な物を荷造りし、今度は暫く空けても大丈夫な様に用意して、
京都に戻っていきました。

この後、毎週、その時期で必要そうな物を買って、荷物に詰めては神戸に行き、周りに配って、マンションで別に何をする事なく帰るという事を続けました。
神戸、大阪間には、山手から阪急、JR、阪神と三本の鉄道が並行して走っており、これを動いている区間をそれぞれ乗り継いで行くのですが、1週間毎に行くと、少しづつそれぞれの距離が伸び、その分歩く距離が減り、所要時間が4時間半から3時間半、
3時間と縮まって行きました。

神戸から大阪までの間をこの3本の鉄道を乗り換えて、一応鉄道で継ぎはぎだらけでも
行ける様になったのは、1ヶ月以上経った後だと思います。

この頃の経験で強く印象に残っているのは、神戸に行っている人は、皆、その継ぎはぎの路線間を歩いて、しかもたくさんの荷物を持って行くので、服装は山登りの様な格好で、汚い格好をしています。
神戸では格好の事など言ってられないのです。
ところが、その電車が梅田につくと、梅田では、皆普通に、仕事もしているし、綺麗な格好でデートもしているし、家族で遊びに行ったりもしているのです。

電車からグレーの硬い表情の集団は、降りて行ってしばらくすると、華やいだ街の中に三々五々散っていき、直ぐに分からなくなっていくのです。
そのギャップというか対比が、いつも非常に物悲しく情けない思いをしました。

被災者は、皆がこんな被害を負った様に思っているのですが、こんな被害は神戸の人だけなんだ、ちょっと大阪に入っただけで、殆ど神戸の事は関係ない世界なんだと感じました。
今でも、あの時の阪神電車終点の梅田から、グレーの集団が、一瞬にして華やいだ街の中に紛れていった光景が目に焼きついています。

つづく。

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